私の出会った人々

さて、労働安全衛生の話をするのなら、次の碑のことから始めなければいけません。

 

この碑は大桟橋の傍ら、波止場会館の敷地にひっそりと建っています。港の仕事で亡くなった人たちを追悼するために、関係者が建立したものです。 毎月1日の午前9時になると、この碑の前に何十人もの作業服姿の男たちが集合します。そして碑に黙とうを捧げると、4,5人が1グループとなり、それぞれ港湾の現場パトロールに行きます。パトロールはたいへん気合いが入った厳しいもので、些細な安全管理の手落ちも見逃しません。

「おい、そこに手すりを設けろ」「歩み板はどうした」「チェンソーの使い方はそうじゃないだろ」・・・・

パトロールの後は波止場の事務所で検討会に入り、反省点が語られます。 このようなパトロールはえてしてマンネリに陥りやすいものですが、このパトロールは違います。それは、パトロールの前に行う慰霊碑への黙とうがすべてを物語っています。 港湾労働者の死亡災害の災害調査をしたことがあります。その労働者の自宅は、労働契約書には「福富町のサウナ」と記載されていました。

それぞれの人生を歩んできた人たちが港湾の現場で働いています。そして、その人たちの安全を願い、守る人がいます。 まずは、このブログの最初にそのことを記載します。

 

私の出会った人たち(6) - 女性監督官

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これは、私がまだ新監だった時の話。

大きなビルの中の地下の浄化槽の清掃作業中に酸欠死亡災害が発生した。5人の作業員が並んで、浄化槽に入っていったところ先頭の2人が倒れ、3人があわてて避難したのだ。酸欠事故は突然発生し、50cmの立ち位置の差が生死を分ける。

災害発生の30分後に救出作業を行っている消防署から労働基準監督署に第1報が入った、そして1時間後に女性監督官のAさんを中心とした私を含めた3人のメンバーが現場検証に行くこととなった。現場に近づくと、周りには異臭が漂っていた。消防が救助のために、バキュームカーで浄化槽内部のガス抜きを行ったのだ。私たち3名は、浄化槽の内部に入っていった。浄化槽の内部には、常設の灯りがなく、消防が設けた緊急の灯りと懐中電灯が頼りだった。浄化槽の中は汚物が散乱し、キツイ臭いだった。Aさんは、浄化槽の中に先頭をきって入っていくと、黙々と実況見分を行った。巻き尺で浄化槽の大きさを測り、犠牲者の倒れた位置を特定し、私に写真の撮影を命令した。

調査が終了したのは、私たちが浄化槽に入ってから約1時間後のことだった。通常では、そこで関係者の事情聴取ということになるのだが、作業服があまりに汚れすぎていた私たちは1度署に戻ることとした。その帰り道の途中でAさんは、私にこう言った。「あなた、浄化槽に入る時に躊躇したでしょ。あそこで絶体に立ち止まってはダメ。どんな場所であれ、そこで働いている人がいることを考えなさい。」
そういうAさんのことを私はとてもきれいで頼もしいと思った。そして、自分を恥ずかしく思った。

私の出会った人たち(5) - 仲間

https://kanagawa-roudoukyoku.jsite.mhlw.go.jp/hourei_seido_tetsuzuki/anzen_eisei/hourei_seido/_120208/koribanice.html

この体操の動画は昨年安全課にいた女性監督官のNさんが作った。

高齢化社会の到来とともに、転倒災害を何とか減らしたいと考えたNさんが専門家に依頼したものである。
上からの命令でなく、Nさんの発案により始めたものだから、Nさんは通常業務以外にこの仕事をしなければならなかった。

このNさんの発案に局の有志が協力した。動画の中でモデルとなっているのは、各署の職員である。みんな忙しい中手伝った。撮影は、カメラのセミプロともいうべき非常勤職員の相談員さんが時間外にしてくれた。また、Nさんの仕事を当時の安全課長は心よく許し、積極的に上層部に説明してくれた。

この動画の打ち上げ会で、動画の中でモデルとなっている男性職員がこう言った。「うちの娘まだ幼いけど、そろそろ物心がついてきたから、この動画を見せて、お父ちゃんはこんな仕事していると説明しています。」

私は、こういう仕事が好きである。

私の出会った人たち(4) - ドッック

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20年前に父が死んだ。膵臓ガンだった。
父は、死の数日前に、強い痛み止めのため朦朧とする意識の中で私にこう言った。「造船所のドックはね、船が出て行った後は水を抜くんだ。すると、そこにはね、魚がたくさんいるんだ。」 父は戦後、造船所の技術者として働いていた。父は私に似て、軽率なところがあるが、現場の仕事がとても好きな人だった。そんな、父が死の直前に思うのは、自分が一番楽しかった時のことなのだろう。私は想ってみた。長い仕事が終わり、いよいよ船が竣工して出て行った春のある日の、水を抜いたドックの中で泳ぐ魚。きっと、陽光の中に水しぶきをあげていたに違いない。

私は監督官時代におよそ千を超える事業場を調査したが、調査先の会社の自慢話を聞くことが好きだった。それは、売り上げがいいとか、急成長をしているとかを聞くことではない。どんな物を作り、どんなことをしていたか、担当者がもしかして、それを熱く語ってくれたら、私はとても嬉しい気分になる。ある鉄道の信号システムの製作会社では、会社が初期の頃作ったオート三輪が飾ってあった。オート三輪を作っていた会社がなぜ信号機を作るようになったのだろう。また、計測器を作成する会社は、明治時代にその会社が作成したという、造船用の巨大な計測器を展示する博物館まで所有していた。

そんな話には、仕事の形が確かに存在する。それはとても大きいものである。父の死後、仕事の帰り道に、ドックヤードガーデンの側を通る時にふと考えた。このドッグを残し、人々の憩いの場に提供した人たちは何を思っていたのだろう。多くは想像できないが、何万人かの働いた人の夢の跡が、とても誇らしいものであったのだろう。誇りある会社は災害が少ない。それは、事故は会社の恥であることを知っているからである。

私の出会った人たち(3)ー 先輩

先日、賃確の話をしたので、その話をもうひとつ。

私が入省した32年前の愛知労働局には、同期の新人監督官だけで7人いた。2年目、3年目監督官もそれくらいいただろうか。みな若かったから、よく一緒に遊んだ。
その年の暮れ、クリスマスイブの夜、みんなで集まり飲もうということになった。当然女性もくる。私たちはその日がくるのを待っていた。

クリスマスイブの日、昼間暗い顔をした7,8人の女性が、私の勤務先の名古屋北労働基準監督署に来た。金属加工業でパートをしていた人たちであるが、社長が資金を持ち逃げし、会社が倒産をし賃金未払いであるとのこと。受付担当となった第2方面主任監督官のSさんは、賃確手続きを行うこととし、約ひと月後に事務処理が終えることを伝えた。来客者達は、取り敢えず賃金が補償されることをきいてほっとしたような表情で帰っていった。

その日の終業時間後のことで、私が飲み会に行こうとすると、Sさんが先ほどのパート女性たちの書類をひろげ仕事をしていた。私はSさんに尋ねた。
「Sさん、今日はクリスマスイブですよ。お子さんにケーキを買って行くって、先ほど言っていたじゃないですか。」
Sさんは答えた。
「そういう予定だったんだけど、工場のパートで一生懸命働いて、お金がもらえないって悲しいことだよ。彼女らにはああは言ったけど、年内には署長の決裁をとって目途つけたいと思ってな。」
私はその時、少し迷った。そしてこう述べた。
「私、手伝います。」
Sさんは、驚いたように言った。
「いいのか、おまえ今日パーティだろ。」
私は答えた。
「いいんですよ。多少遅れても。いつものメンバだし。」
結局、その日、Sさんと私、夜11時過ぎまで、名古屋の地下鉄の終電まで仕事をした。

それから約20年後のこと。
私が横浜西労働基準監督署の第1課長をしていた時の話。
クリスマスイブの日の午後5時頃、私はその日受理した賃確業務の事務処理をしていた。部下のOが私に声をかけてきた。そいつは、20歳代後半の男性で来春の結婚が決まっている奴だった。
「課長、クルスマスイブなのに残業ですか。」
私は答えた。
「うん、さっき受理したスーパーマーケット倒産の賃確だけどな、パートの人たちになんとか年内に支払ってやれないかと思ってな。」
Oはしばらく考えた末、私にこう述べた。
「僕が手伝います。」
私は驚いて答えた。
「だって、おまえ今日デートだろ」
Oは述べた.
「かまいません。家で待たせておきます。」

この時、私はSさんのことを思った。Sさんは自分が何を残したのかなんて、まったく気づいていないのだろう。だけどSさんの思いは、不肖の後輩の私を経て、確実に後へ続く監督官へ広まった。Sさんは、その後、病気となった奥様の看病のため、定年前に退職したと聞いた。Sさんらしいなと思った。