夏の思い出

(甲斐駒ヶ岳とナノハナ・長野県富士見町、by T.M)

夏が来ると思い出します。

7年前のこの季節に私は横浜市大の浦舟病院のICUに入院していました。ギランバレーでした。ギランバレーの症状は、ALSに似ています。全身の神経がやられてしまい、動ける箇所は首だけになります。腕や足が動かないだけでなく、目の瞼も閉じられなくなり、舌も動かず、食べ物を嚥下することもできません。医師は私の呼吸器が動かなくなることを危惧し、気管切開し人工呼吸器を装着し、尿道カテーテル、点滴の措置を行いました。当時の様子をカミさんに尋ねると、カミさんは「機械に囲まれ、チューブがたくさん取り付けられて、宇宙飛行士の様だった」と答えてくれます。

ALSとギランバレーの違いは、ギランバレーは上記のような症状(最悪期)に達するのに1~2週間かかり、最悪期がさらに1~2週間続いた後に健康が回復する可能性が高いということです。もっとも、回復といっても、リハビリを何年も行うこととなり、それでも後遺症が残ることもあり、寝たきりになり人や、私のように歩行困難となる人も多いようです。

ALSはギランバレーと違い、症状発覚から最悪期になるまでに数年かかり、その後回復する見込みは少ないと聞きます。ゆっくりと症状が悪化してくることを自覚できるので、患者の精神的な苦しみは壮絶なものでしょう。希望があった私の場合でも、医師は「気が狂う」ことを恐れ、「眠らせる」措置を行いました。私は全然覚えていませんが、話せる状態の時は、ずっと大声で独り言を言っていたようです。ですから、今回のALSの方の自殺の件についても、なんとなく理解できるような気がします。

私が最悪期を脱しつつあった7年前の8月15日に、朦朧とする意識の中で観ていたテレビで次のニュースが流れていました。

2013年8月15日19時30分ごろ、花火大会会場で臨時営業中であったベビーカステラを販売する屋台の店主が、発電機にガソリンを給油するためにガソリン携行缶の蓋を開けたところ、大量のガソリンが噴出して爆発した。この爆発により花火の見物客3名が全身火傷(III度熱傷)を負うなどして死亡した。また、59名が重軽傷を負い、露店3棟が延焼した。

事故原因は、店主がガソリン携行缶のエア調整ネジを緩めることなくいきなり蓋を開けたため、携行缶の開口部からガソリンが一気に噴き出して周囲に飛散し、火気を使用する複数の屋台にガソリンが降りかかって引火・爆発したためである。(Wikipediaより引用)

この報道で私は、自分の本来の仕事を思い出し、入院中であるにもかかわらず、忸怩たる思いにかられました。

私が、このニュースを聞いて、なぜそんな思いをしたかというと、その事故以前に私の所属する労働局管内で、まったく同じ事故が発生していたからです。

ここで、災害原因となった「ガソリン携行缶」について、ご説明します。これは、ガソリンを持ち運ぶための容器ですが、普通の石油缶等と違うところは、容器には吸入口の他に小さなネジがついていることが特徴です。ガソリンを密閉された容器に入れ運搬すると、容器の中でガソリンが気化し、中の圧力が高まり、そのまま容器の栓を緩めると、そこからガソリンが勢いよく噴出することがあります。缶ビールの蓋を開けた時に、中のビールが噴出してくる場合がありますが、それと同じ現象がガソリン入り容器の中で起きるのです。それを防止するために、ガソリン携行缶には小さなネジがついています。容器の栓を開ける前にこのネジを開くことによって、圧力を逃がしてやるのです。ただ、この操作方法を知らないで、ガソリン携行缶を使用している人も多いらしく、捜査方法を誤っての事故事例は多いようです。因みに、昨年の京アニの容疑者青葉真司による放火事件ですが、青葉容疑者も放火の最に、このガソリン携行缶の操作を誤り、内圧を抜かないでガソリンを撒いたために、自らもガソリンをかぶってしまったのではないかと推測されます。

さて、福知山の事件の前に、私の所属する労働局内で発生した事件とは、建設現場で発電機にガソリン携行缶から燃料を補給しようとした労働者が、エア調整ネジを緩めることなくいきなり蓋を開けたため、ガソリンが噴出し、発電機の熱でガソリンが燃焼し、労働者が火傷で死亡したものです。

私はその時、労働局の安全課に所属していましたが、署から災害調査復命書が上がってきた時に、「これは大変な事故だ」と思いました。ガソリン携行缶がホームセンター等で売られていて、一般人がすぐ利用できるのに、使用方法については周知されていないと思ったからです。「必ず、将来的に大きな事故が起きる」と思いました。また、調べてみると、ガソリン携行缶での災害は、その時点においても全国的に多数発生しているようでした(主に、各地方の消防署のHPから情報を得ました)。

署の災害調査復命書では、法違反なかったので、指導票を交付とすると記載されていました。私は、この事件については「無理筋」の送検でもすべきだと主張し、決裁蘭にはそのことも記載しました。しかし、結論は変わりませんでした。

病院を退院し、リハの継続中に、久しぶりに安全課に行った時に、当時を知る安全課の職員から、「心配が当たってしまいましたね」と言われました。私は、あの時に、もっと強行に自己主張していればと、その時に激しく後悔しました。

(注)監督署は、災害が発生した時に、その直接原因が安衛法違反である時に送検手続きを取ります。しかし、「直接原因」でなくても、社会的に大きな事案であれば、社会全般への影響を考慮し、「間接原因」を見つけ(こじつけ)、無理筋に送検することが時々あります。そのような送検は、関西の労働局に多く見受けられます。具体的事例については、今後このブログで、機会があれば紹介していきたいと思います。

労働災害が起きました(終)

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(M氏寄贈、夕暮れの大山とポルシェ)

爆発災害から1年も過ぎようとした、ある春の日のことである。
新監は二年目監となっていた(名目上「新監」と呼ぶ)。
その日、私と新監はいつものように「おはよう」と挨拶をすると、何となく世間話となった。私は前日の飲み会の話をした。
「昨日、同期の飲み会があったんだけど、ほらYK署の私の同期のH田一主任なんだけど、彼の部下に、君の同期の女性監督官のYさんがいるだろ。彼女って、すごく有能で、美人で性格もよく、彼女がいると職場が明るくなるそうだ。それを聞いて、私はH田が羨ましくなったよ。私もYさんのような部下が欲しいな。」
それを聞いていた、新監は一瞬険しい表情となったが、すぐに元の表情となり、応えた。
「私の同期でそんなに優秀な方がいて、私も誇らしいです。いつもお手本にしています。ところで一主任、今日のファッション決まってますね。」
私はその時に、前日から着続けている980円のTシャツの上に、これもまた1週間は着替えていない上下の作業服と、作業用のスニーカーを身に着けていた。
作業服は着古してあり、「厚生労働省」のエンブレムは剥がれてしまい、正体不明の上着となっている。この服装はいつものことで、私が職場近くの公園のベンチで昼寝をしていると、京浜工業地帯の風景に溶けこみ、ナチュラルな雰囲気を醸し出す。私は、作業服の下に着ている垢じみたTシャツを指して答えた。
「ありがとう。服装のことを褒められたのは、生まれて初めてだ。カミさんには、いつも『清潔な服を着ろ』といって怒られるのだが、私の感性を理解してもらってとても嬉しいよ。」
私と新監の近くに、たまたま庶務担当の女性のSさんが来て、この会話を聞いていた。彼女は新監と年齢が近く、美しく聡明で、そして常識人だった。なぜか顔を強張らせ怯えていた。
そんな和やかな雰囲気の中で、監督署の1日が始まった。

その日の午後のことだった。
監督署のドアが開くと、なんとそこには、あの事故の被災者と工場長がニコニコしながら立っていた。私は思わず駆け寄った。
「今日は。退院したんですか」
工場長さんは答えた。
「おかげさまで、ひと月前に退院しました。それから、自宅でリハビリを実施していましたが、昨日から出社しています。今日は、ご心配をおかけしたので、挨拶に伺いました。」
私は、被災した彼にも尋ねた。
「大丈夫か。海にはいけるか」
彼は答えた。
「ハイ、来月には、久しぶりに潜ってみるつもりです。それから、秋には、初めて船に乗ります。」
「そう、それは良かった」
私は新監を探した。新監は部屋の奥で来客者と難しい話をしているようだった。
「あれが、例の担当者なんですが、ちょっと呼んできますので・・・」
彼は私を止めた。
「いいんです。ありがとうございましたとお伝え下さい。」
彼は、ほんの一瞬だが来客対応に夢中の新監の姿を確認すると、一礼し部屋を出て行った。

30分後に来客対応を終えた新監が私のところに来た。
「さっきの人は、どなたですか。」
「ほら、例の事故の被災者。もうすっかり治って、職場復帰したそうだ。それだけでなく、秋には船に乗り、海洋工事に行くそうだ。」
「それは良かったです。ヘェー、あんなカッコいい人だったんだ・・・」
私は新監に、「君に会いに来たんだ」と教えてやろうかと思ったが、また自惚れると思い辞めた。その替わりに、久々に上司らしい一言を発した。
「これで、災害調査終了。よくやった、ごくろうさん。」
新監はキョトンとして、私の宣言を聞いていた。私は、自分が少し意地悪かもしれないと思った。

(終り)

労働災害が起きました(18)

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(M氏寄贈、広瀬川)

私は、新監と実施した実況見分の様子を説明した。
「本当は新監を災害調査に連れていくなんて早いと思ったんだけど、教育のためにぜひ連れていってくれと署長から頼まれたから、仕方なく連れていったんだ。実際に行ってみると、クルマの運転は下手だし、カメラは使えないし、図面は滅茶苦茶だし、飲み込みは悪いしで苦労したよ。まあ、新人だから仕方ないけどね。
今は、毎日生き生きと仕事をしているよ。パソコンが詳しいところだけが取り柄で、他はまだまだ未熟だけど一生懸命だ。よき仲間と、優秀な上司に恵まれているのが幸いなんだけどね。」

それから、私たちは打ち解け、色々なことを話した。彼の家庭環境のこと、彼がどうして今の仕事を選んだかということ、彼が今夢中になっているもの、彼が好きなアイドル等々。

そして、事故のことも聞けた。あの日、彼が先輩からどういう指示を受けたか、そもそも爆発したドラム缶にかつてガソリンが入れられてあったことの認識を持っていたかどうか。作業標準はあったか等
そして、一番聞きたかったこと、「労災事故の被害者として、会社を処罰して欲しいかどうか。」という質問について、「処罰は求めない」との回答は得た。

私は彼に対し、早期の職場復帰を祈っていることを伝えながら話した。
「役人として、余計なことかもしれないが、ひとつ言わせてもらうけど、色々な会社を見てきたが、君のいる会社はいい会社だよ。いつかは辞めるかもしれないが、君は今いる会社で、技術を学び、キャリアを積んだ方がいいと思う。君の志が、このような事故で負けてしまうことは惜しいと思う。」
私は、最後にこう付け加えた。
「元気になったら、監督署においで、新監を紹介するよ。」
彼は黙って聞いていた。

監督署へ帰ってくると、新監とM安全専門官が、キャッキャと笑いながら、業務の検討をしていた。私は、その屈託のない様子を見ながら、同じ社会人の第1歩目で、長く入院生活をおくる者と順調に歩む者がいることは、やはり何か不公平な気がした。

労働災害が起きました(17)

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私はこの若者をどうやって元気づけようかと迷った。
「事故じたいは運がなかったんだよ。こんなこと滅多にないよ。」
「会社も社長さんもいい人じゃないか。事故が起きたからといって、こんなに従業員のことを心配する会社はないよ」
「君は夢をもって就職したんだろ。海洋開発なんて、素晴らしい仕事だよ。うらやましいな。君は夢に向かって努力して、一生懸命勉強して、潜水士の資格も高校生の時に取得したんだろ。これは、凄いことだよ。」
「君がしっかりしないと、お母さんを益々悲しませるぞ。」
・・・・
どんな、慰めも励ましも彼には通じないような気がした。

私は話題を変え、災害発生状況の件について尋ねようとした。ベッドの上の簡易テーブルの上に実況見分時に撮影した写真を広げ、質問しようとしたが、彼はそれを嫌がった。
「そんなものしまって下さい。見たくありません。事故のことは思いだくありません。」
私は、自分の無神経さ恥じ、彼に詫びた。そして、写真を片付け始めるたところで、彼が1枚の写真を眺めていることに気づいた。
それは、新監が実況見分時に起点を指してる写真であった。

私は、もしかしたら、その写真から話のきっかけが作れるかもしれないと期待した。
「それ、うちの新人だけど、こちらの写真の方が大きく映っているよ。」
私は、新監が撮影されているもう1枚の写真を示した。新監は、借り物の大きすぎる作業服と安全靴、使い古したヘルメットを被り、いかにも現場に似合わない姿に映っていた。
「かわいいだろ。君のことを心配してたぞ。」
彼は、疑わしそうに言った。
「本当ですか。」
私は、説明した。
「彼女は君と同じなんだよ。君と同じ日に社会人になった。君が同期だから、今回の事故の件は、他人事に思えないそうだ。」
さらに、私は続けた。
「本当は今日一緒に来るはずだったんだが、どうしても抜けられない研修があって来れなかった。君が早く職場復帰できるか、とても気にしていたよ。」
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労働災害が起きました(16)

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(M氏寄贈、都留市・旧尾県学校)

さて、爆発災害の被災者への事情聴取であるが、11月も終わりのある日に、被災者が入院する病院に行くことで、被災者及びその家族の承諾を得た。その日は、あいにく新監の都合が悪かったので、私一人が病院へ行くこととなった。

その病院は三浦半島の主要都市にある Y共済病院だった。被災者のNは個室を与えられていた。看護人は誰もいなくて、私は一対一で彼と話しをした。
彼はまず、横になったまま話をする非礼を詫び、毎日リハビリはあるが車イスでなければ動けないという説明をしたが、そのことを話すのに2,3分はかかっただろうか、口ごもり、私に言葉を惜しむように訥々と話をした。
元々は快活な性格だが、事故の治療に精神的に相当まいっているという、事前の情報のとおりであった。

事故の前の彼の写真から、彼のことが想像できる。彼は海がとても好きで、スポーツ好きの健康な若者だったのだろう。そして、彼は夢を持ち、努力して就職した。その彼の肉体が、今彼を裏切り、コントロールできないようになってしまっている。鬱になるのは当然である。
(注) 私事であるが、私は3年前に、ようやく彼の当時の状況が実感できた。私はギランバレーという神経の病気になり、わずか3日で四肢が動かなくなった。その3日間に一睡もできず、4日目に意識を失ったが、その意識を無くしている最中に大声で喚き続けたということである。肉体が自由を失う時に人は発狂する。

具合はどうかと尋ねる私に対し、彼は「良くないです」と答えた。
職場の人は見舞いに来るかという、私の質問に対し、「週に2,3回は、社長さんか、専務さんか、工場長さんがお見舞いに来てくれます。」と答えた。
家族の事、生活の事について尋ねると、「母は毎日来てくれますが、泣いてばかりです。会社が面倒みてくれているので、生活に特に支障はありません。」ということだった。
雑談の後に、思い切って会社復帰の件について尋ねると、「今はそんなこと考えられません。職場のことはもう考えたくありません。やめようと思っています。」
と答えた。