労働安全衛生マネジメントシステム(2)

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(続き)

コンビニアやスーパーで販売するお弁当を製造している工場にいったことがある。多種多様な弁当を合計で1日に1万食くらい製造していた、24時間稼働の工場である。弁当の製造工程は、①材料(アイテム)を作る ②アイテムを各弁当に詰めるといったものであったが、アイテムは、カツ等の揚げ物や野菜のおひたし等で日替わりで6000種類くらいある。それを、中央制御室の指示に従い、何時から何時までは、これこれのカツを揚げてとか、豆を煮てとかやるのである。
ラインへの指示は、A4紙ほどのプレートでなされる。ベルトコンバヤに乗る流れ作業で、看板方式による管理、当然在庫は残さない、そして扱うものは多品種。それは、何10年も前の自動車工場を想起させるものである。

大規模な食料品製造業における労働災害発生率が高い理由は、昭和40年代前半に存在した多くの製造業のように労働集約型産業だからである。そして、作業内容は、機械等を操作するといったある程度のskillを必要とするものでない。災害もすべった、ころんだ、刃物で切った、あるいは腰痛という単純な行動災害が多い。ならば、災害を減少させることちに成功したかつての自動車産業のようにマネジメントの力によってリスクを削減することが可能なはずだと、私は考えた。

私はこの災害統計の結果を受けて、災害を多発させている約50の食料品製造業の監督を実施するように労働基準部長に箴言した。そして、あらためて各署が臨検監督を実施するようにした。すると、各署から次のような意見があがってきた。

「今までもこれらの会社は何回も指導しています。しかし災害はなくなりません。」

その時には、まだ世の中では労働安全衛生マネジメントシステムの概念は浸透していなかったのである。

労働安全衛生マネジメントシステム(1)

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これは、従業員10人くらいのプレス屋さんの臨検監督をしていた時の話。

そこのオヤジさんが、ポツリとこんなことを言った。「うちで事故なんて5年前にあったきりですよ。なんで、事故がないうちに監督に来るのですか。」
私はその時に心の中でこうつぶやいた。「でもね社長さん、従業員10人の会社が5年に1件災害を起こすということは、従業員1000人の会社が年間20件の災害を発生させていることと、統計上一緒ということになるんですよ。」

監督署の臨検監督は統計上の結果を基に災害発生率が高いところにいくことになるのだが、小規模事業場は総体としては災害発生件数が多くても、1事業場にしてみれば、「ウチは何年も災害を発生させていないのに・・・」ということになり、監督官の現場での指摘が事業主はピンとこないことが多いのである。

一般的に、やはり小規模事業場の方が災害発生率が高くなる。金属加工業と輸送用機械器具製造業では、従業員300人以上の事業場と従業員5人未満の事業場の災害発生率は約5倍程度小規模事業場の方が高いのである。もっとも、これは小規模事業場の名誉のために言わせてもらうが、小規模事業場の方が安全管理は難しいのも確かである。それは、次の理由による。
(1)小規模事業場の方が1人当たりの工程数が多くなるので管理がしずらい。
(2)少しの安全経費を計上しても、設備投資におけるその割合は高くなる。つまり小規模事業場が1台のプレスにカバーをする安全経費の割合は、大規模事業場が10台のプレスにカバーをする安全経費の割合より、はるかに高くなるので設備投資がしずらいなどの理由によるものである。

安全課で災害統計を作成していた時にすごい発見をしたと思った時がある。
食料品製造業の災害についてである。食料品製造業の労働災害は非常に多い。例えば、平成26年の神奈川県の製造業の災害発生件数は1076件であるが、そのうちの3割にあたる317件が食料品製造業の災害である。ところが、なんとその食料品製造業は、規模が大きくなるほ災害発生率が高くなるのである。私はこのコペルニクス的な統計の結果を発見し、「ヤッター、これで災害対策ができる。」と小躍りをした。
結論から言うと、神奈川県内には約1200社の食料品製造業の事業場が存在するが、そのうちの従業員300人以上の特定の事業場50社が、食料品製造業全体の災害のなんと1/3を発生させていたのだ。

私の出会った人たち(4) - ドッック

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20年前に父が死んだ。膵臓ガンだった。
父は、死の数日前に、強い痛み止めのため朦朧とする意識の中で私にこう言った。「造船所のドックはね、船が出て行った後は水を抜くんだ。すると、そこにはね、魚がたくさんいるんだ。」 父は戦後、造船所の技術者として働いていた。父は私に似て、軽率なところがあるが、現場の仕事がとても好きな人だった。そんな、父が死の直前に思うのは、自分が一番楽しかった時のことなのだろう。私は想ってみた。長い仕事が終わり、いよいよ船が竣工して出て行った春のある日の、水を抜いたドックの中で泳ぐ魚。きっと、陽光の中に水しぶきをあげていたに違いない。

私は監督官時代におよそ千を超える事業場を調査したが、調査先の会社の自慢話を聞くことが好きだった。それは、売り上げがいいとか、急成長をしているとかを聞くことではない。どんな物を作り、どんなことをしていたか、担当者がもしかして、それを熱く語ってくれたら、私はとても嬉しい気分になる。ある鉄道の信号システムの製作会社では、会社が初期の頃作ったオート三輪が飾ってあった。オート三輪を作っていた会社がなぜ信号機を作るようになったのだろう。また、計測器を作成する会社は、明治時代にその会社が作成したという、造船用の巨大な計測器を展示する博物館まで所有していた。

そんな話には、仕事の形が確かに存在する。それはとても大きいものである。父の死後、仕事の帰り道に、ドックヤードガーデンの側を通る時にふと考えた。このドッグを残し、人々の憩いの場に提供した人たちは何を思っていたのだろう。多くは想像できないが、何万人かの働いた人の夢の跡が、とても誇らしいものであったのだろう。誇りある会社は災害が少ない。それは、事故は会社の恥であることを知っているからである。

私の出会った人たち(3)ー 先輩

先日、賃確の話をしたので、その話をもうひとつ。

私が入省した32年前の愛知労働局には、同期の新人監督官だけで7人いた。2年目、3年目監督官もそれくらいいただろうか。みな若かったから、よく一緒に遊んだ。
その年の暮れ、クリスマスイブの夜、みんなで集まり飲もうということになった。当然女性もくる。私たちはその日がくるのを待っていた。

クリスマスイブの日、昼間暗い顔をした7,8人の女性が、私の勤務先の名古屋北労働基準監督署に来た。金属加工業でパートをしていた人たちであるが、社長が資金を持ち逃げし、会社が倒産をし賃金未払いであるとのこと。受付担当となった第2方面主任監督官のSさんは、賃確手続きを行うこととし、約ひと月後に事務処理が終えることを伝えた。来客者達は、取り敢えず賃金が補償されることをきいてほっとしたような表情で帰っていった。

その日の終業時間後のことで、私が飲み会に行こうとすると、Sさんが先ほどのパート女性たちの書類をひろげ仕事をしていた。私はSさんに尋ねた。
「Sさん、今日はクリスマスイブですよ。お子さんにケーキを買って行くって、先ほど言っていたじゃないですか。」
Sさんは答えた。
「そういう予定だったんだけど、工場のパートで一生懸命働いて、お金がもらえないって悲しいことだよ。彼女らにはああは言ったけど、年内には署長の決裁をとって目途つけたいと思ってな。」
私はその時、少し迷った。そしてこう述べた。
「私、手伝います。」
Sさんは、驚いたように言った。
「いいのか、おまえ今日パーティだろ。」
私は答えた。
「いいんですよ。多少遅れても。いつものメンバだし。」
結局、その日、Sさんと私、夜11時過ぎまで、名古屋の地下鉄の終電まで仕事をした。

それから約20年後のこと。
私が横浜西労働基準監督署の第1課長をしていた時の話。
クリスマスイブの日の午後5時頃、私はその日受理した賃確業務の事務処理をしていた。部下のOが私に声をかけてきた。そいつは、20歳代後半の男性で来春の結婚が決まっている奴だった。
「課長、クルスマスイブなのに残業ですか。」
私は答えた。
「うん、さっき受理したスーパーマーケット倒産の賃確だけどな、パートの人たちになんとか年内に支払ってやれないかと思ってな。」
Oはしばらく考えた末、私にこう述べた。
「僕が手伝います。」
私は驚いて答えた。
「だって、おまえ今日デートだろ」
Oは述べた.
「かまいません。家で待たせておきます。」

この時、私はSさんのことを思った。Sさんは自分が何を残したのかなんて、まったく気づいていないのだろう。だけどSさんの思いは、不肖の後輩の私を経て、確実に後へ続く監督官へ広まった。Sさんは、その後、病気となった奥様の看病のため、定年前に退職したと聞いた。Sさんらしいなと思った。