万葉集と申告(6)

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(頂いた画像です。旧古河庭園のバラの花です。)

(続き)

A亭のおかみさんからの電話は、老人が風邪をこじらせ一週間程前に亡くなったということだった。死ぬ数日前に彼の論文が掲載された雑誌が出版され、老人は私にその雑誌を送りたいと言っていたというので、それを郵送するということであった。私は少し迷ったが、おかみさんに「郵送するには及ばない。私が取りに行く」と述べた。
数日後、私は午後の半休を取得した。そして、鎌倉駅近くの花屋で花束を購入するとA亭を尋ねた。老人の仏壇は世田谷の自宅にあるとかで、そこには何もなかったが、生前彼が好きだった場所でお線香を上げてくれというおかみさんに案内され、ある座敷に通された。「MK(老人)はここで庭を観ることが好きでした」というおかみさんの示す先には桃の花が満開だった。
帰り際、おかみさんから「歴史研究」という雑誌と彼の色紙を手渡された。わずか600円足らずのその雑誌ではあるが、おそらくは老人の遺作となりであろう論文が掲載されていた。

ところで、彼の私へのこのプレゼントであるが、果たして国家公務員倫理法に違反しているであろうか。監督官として被申告者との過度の付き合いはいかがなものであろうか。
私は難しいことを考えることを辞めた。そして、老人と女の話をしただけだと思うことにした。

彼の色紙は、料亭で結婚式を挙げるカップルに毎回彼が贈っていたものらしい。彼の自筆でこう書いてあった。
水無月乃 我妻能久尓波 佐久花乃
尓保不賀言戸志 伊間佐加利奈利
(みな月の 東の国は さく花の
匂うがごとし いま盛りなり)

子供のような老人と関わった、現役時代の不思議な申告処理の思い出である。

(終り)