私の出会った人たち(4) - ドッック

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20年前に父が死んだ。膵臓ガンだった。
父は、死の数日前に、強い痛み止めのため朦朧とする意識の中で私にこう言った。「造船所のドックはね、船が出て行った後は水を抜くんだ。すると、そこにはね、魚がたくさんいるんだ。」 父は戦後、造船所の技術者として働いていた。父は私に似て、軽率なところがあるが、現場の仕事がとても好きな人だった。そんな、父が死の直前に思うのは、自分が一番楽しかった時のことなのだろう。私は想ってみた。長い仕事が終わり、いよいよ船が竣工して出て行った春のある日の、水を抜いたドックの中で泳ぐ魚。きっと、陽光の中に水しぶきをあげていたに違いない。

私は監督官時代におよそ千を超える事業場を調査したが、調査先の会社の自慢話を聞くことが好きだった。それは、売り上げがいいとか、急成長をしているとかを聞くことではない。どんな物を作り、どんなことをしていたか、担当者がもしかして、それを熱く語ってくれたら、私はとても嬉しい気分になる。ある鉄道の信号システムの製作会社では、会社が初期の頃作ったオート三輪が飾ってあった。オート三輪を作っていた会社がなぜ信号機を作るようになったのだろう。また、計測器を作成する会社は、明治時代にその会社が作成したという、造船用の巨大な計測器を展示する博物館まで所有していた。

そんな話には、仕事の形が確かに存在する。それはとても大きいものである。父の死後、仕事の帰り道に、ドックヤードガーデンの側を通る時にふと考えた。このドッグを残し、人々の憩いの場に提供した人たちは何を思っていたのだろう。多くは想像できないが、何万人かの働いた人の夢の跡が、とても誇らしいものであったのだろう。誇りある会社は災害が少ない。それは、事故は会社の恥であることを知っているからである。

私の出会った人たち(3)ー 先輩

先日、賃確の話をしたので、その話をもうひとつ。

私が入省した32年前の愛知労働局には、同期の新人監督官だけで7人いた。2年目、3年目監督官もそれくらいいただろうか。みな若かったから、よく一緒に遊んだ。
その年の暮れ、クリスマスイブの夜、みんなで集まり飲もうということになった。当然女性もくる。私たちはその日がくるのを待っていた。

クリスマスイブの日、昼間暗い顔をした7,8人の女性が、私の勤務先の名古屋北労働基準監督署に来た。金属加工業でパートをしていた人たちであるが、社長が資金を持ち逃げし、会社が倒産をし賃金未払いであるとのこと。受付担当となった第2方面主任監督官のSさんは、賃確手続きを行うこととし、約ひと月後に事務処理が終えることを伝えた。来客者達は、取り敢えず賃金が補償されることをきいてほっとしたような表情で帰っていった。

その日の終業時間後のことで、私が飲み会に行こうとすると、Sさんが先ほどのパート女性たちの書類をひろげ仕事をしていた。私はSさんに尋ねた。
「Sさん、今日はクリスマスイブですよ。お子さんにケーキを買って行くって、先ほど言っていたじゃないですか。」
Sさんは答えた。
「そういう予定だったんだけど、工場のパートで一生懸命働いて、お金がもらえないって悲しいことだよ。彼女らにはああは言ったけど、年内には署長の決裁をとって目途つけたいと思ってな。」
私はその時、少し迷った。そしてこう述べた。
「私、手伝います。」
Sさんは、驚いたように言った。
「いいのか、おまえ今日パーティだろ。」
私は答えた。
「いいんですよ。多少遅れても。いつものメンバだし。」
結局、その日、Sさんと私、夜11時過ぎまで、名古屋の地下鉄の終電まで仕事をした。

それから約20年後のこと。
私が横浜西労働基準監督署の第1課長をしていた時の話。
クリスマスイブの日の午後5時頃、私はその日受理した賃確業務の事務処理をしていた。部下のOが私に声をかけてきた。そいつは、20歳代後半の男性で来春の結婚が決まっている奴だった。
「課長、クルスマスイブなのに残業ですか。」
私は答えた。
「うん、さっき受理したスーパーマーケット倒産の賃確だけどな、パートの人たちになんとか年内に支払ってやれないかと思ってな。」
Oはしばらく考えた末、私にこう述べた。
「僕が手伝います。」
私は驚いて答えた。
「だって、おまえ今日デートだろ」
Oは述べた.
「かまいません。家で待たせておきます。」

この時、私はSさんのことを思った。Sさんは自分が何を残したのかなんて、まったく気づいていないのだろう。だけどSさんの思いは、不肖の後輩の私を経て、確実に後へ続く監督官へ広まった。Sさんは、その後、病気となった奥様の看病のため、定年前に退職したと聞いた。Sさんらしいなと思った。

私の出会った人たち(2)ー 石巻、あるいは美しき人たち

32年間の行政マンとしての人生で、一度だけ人前で涙を流したことがある。

2011年4月の石巻労働基準監督署でのことである。
その年の4月8日(土)、私は石巻に向かった。震災直後の石巻労働基準監督署の手伝いをするためである。
私はその20年ほど前に石巻労働基準監督署で勤務し、原発の安全確保等の指導をしていたが、土地勘があるので、神奈川労働局からの支援派遣要員第1号に選ばれたのだ。なお、交通手段と宿は自分で確保しろということだった。

石巻に行く日、リュックサックを背負い、作業服の私を妻が東京まで見送ってくれた。
まだ、鉄道は再開してなく、東京駅はバスで仙台まで向かう人でごったがえしていた。皆私と同じように大きな荷物を抱えていた。

石巻についた翌日(日)に、私は震災直後の石巻の街を歩いた。
街には何もなく、ガレキの山だった。そこいらへ、死者を悼む花が添えられていた。まだ、花屋はないらしく、多くが野に咲く花が手向けられていた。

翌日(月)から私は石巻署のカウンターに座り、大量な来客者の相手をしていた。
石巻署の正規職員は、署長を含め全員がクルマで外回り、手伝いの者は来客者の対応というのが、仕事の割り振りだった。

相談者の多くは、給料日が過ぎているのに給料がもらえないという相談だった。
会社も社長さんも津波で流されて、給料の支払者がいないのだ。労働基準法では、こういう場合は賃確という業務を行う。正確に言うと「賃金の支払いの確保等に関する法律」の施行事務である。つまり、天災等の緊急事態によって賃金が払われない場合は、国が労災保険の資金を遣って未払い賃金の立替業務を行うのである。この事業については、昔から不正受給が多く、「本当に事業が継続していないのか」「本当に未払いの金額は確認できるのか」等を慎重に調査をする。しかし、この震災の時に限っては、国は「速やかに事務手続きを行うこと」と方針を確定していた。それを受け、私は窓口で事務手続きを行っていた。

石巻署の手伝いを初めて2、3日くらいたってのこと、カウンターの私の前に4,5人の40~50代の女性たちが座った。話に聞くと、勤めていた水産加工場が津波で流されてしまい、給料が未払いであるとのこと。私は賃確の説明をした。すると女性たちは顔を見合わせ何か相談すると、一人が私にこう言った。
「おら、いらね。」
「えっ」。意外な反応に私は驚いた。訳を尋ねると次のように答えが返ってきた。
「立替払いっていうと、後で社長のところに請求がくるんでしょ。社長と会社は津波で流されてしまい、社長の奥さんは今、オラたちと同じ避難所にいる。その奥さんのところに後で請求がきたら嫌だから、オラたちはいらね。」
私は言葉を探した。何か話さなければならないのに、何も浮かばなかった。そして、涙が次から次へとあふれてきた。
最後に連絡先を聞くのがやっとだった。

悔し涙、悲しい涙、それは堪えることができるかもしれない。でも、美しい人に出会った時は涙は止められないと思った。