(続き)
結局次の現場でも私は何の違反も指摘できなかった。
あせった。このまま是正勧告書を1枚も交付できなければ、無能の烙印を押されるじゃないか、そう思った。そして最後の現場に向かった。
最後の現場も前の2ヶ所の工事現場と同じで、何の違反も発見できなかった。ところが、書類審査でついに違反を見つけた。その現場で36協定が監督署に届出られていないことが判明したのだ。
私は意気揚々として、その現場の監督である若い代理人にそのことを告げた。その現場代理人は面食らったようであったが、
「ハー、時間外労働協定ですか。分かりました今後気をつけます。」
と述べた。その現場代理人が、とても素直に是正勧告書を受理したことが、少し意外だった。
(注) 「36協定とは」労働基準法第36条に基づく労使協定。使用者と労働者代表が残業時間の上限について締結する。すべての工事現場において、この書類を所轄労働基準監督署に提出することが義務付けられているが、本社で協定しているのに、現場単位で改めて協定することが馬鹿馬鹿しいことであることは言うまでもない。(当時、本社一括の36協定制度はまだなかった)
私の労働基準監督署の上司は次長のS原氏であった。彼は小柄で頭は完全に禿げており、いつもセカセカ動き回っていた。そして、「愛知局の労働安全衛生の鬼」として有名だった。
その次長が私の監督結果を見て、私に言った。
「建設現場へ行って、36協定の違反だけ指摘してきたのか」
私は他に何の違反もなかったことを次長に伝えた。次長は腕を組み、目をつむって話を聞いていたが、やがてこう言った。
「おまえ、おれと一緒に監督へ行ったことがなかったよな。明日、おれが建設の監督に行く。ついて来い。」
(続く)