(M氏寄贈、都留市・旧尾県学校)
さて、爆発災害の被災者への事情聴取であるが、11月も終わりのある日に、被災者が入院する病院に行くことで、被災者及びその家族の承諾を得た。その日は、あいにく新監の都合が悪かったので、私一人が病院へ行くこととなった。
その病院は三浦半島の主要都市にある Y共済病院だった。被災者のNは個室を与えられていた。看護人は誰もいなくて、私は一対一で彼と話しをした。
彼はまず、横になったまま話をする非礼を詫び、毎日リハビリはあるが車イスでなければ動けないという説明をしたが、そのことを話すのに2,3分はかかっただろうか、口ごもり、私に言葉を惜しむように訥々と話をした。
元々は快活な性格だが、事故の治療に精神的に相当まいっているという、事前の情報のとおりであった。
事故の前の彼の写真から、彼のことが想像できる。彼は海がとても好きで、スポーツ好きの健康な若者だったのだろう。そして、彼は夢を持ち、努力して就職した。その彼の肉体が、今彼を裏切り、コントロールできないようになってしまっている。鬱になるのは当然である。
(注) 私事であるが、私は3年前に、ようやく彼の当時の状況が実感できた。私はギランバレーという神経の病気になり、わずか3日で四肢が動かなくなった。その3日間に一睡もできず、4日目に意識を失ったが、その意識を無くしている最中に大声で喚き続けたということである。肉体が自由を失う時に人は発狂する。
具合はどうかと尋ねる私に対し、彼は「良くないです」と答えた。
職場の人は見舞いに来るかという、私の質問に対し、「週に2,3回は、社長さんか、専務さんか、工場長さんがお見舞いに来てくれます。」と答えた。
家族の事、生活の事について尋ねると、「母は毎日来てくれますが、泣いてばかりです。会社が面倒みてくれているので、生活に特に支障はありません。」ということだった。
雑談の後に、思い切って会社復帰の件について尋ねると、「今はそんなこと考えられません。職場のことはもう考えたくありません。やめようと思っています。」
と答えた。