無断欠勤

寝台特急サンライズ出雲と瀬戸の切り離し作業か行われる岡山駅、by T.M)

文春オンライン 4/7

なぜこの国には、働けない者がいるのか。働く能力はあるのに「働けない」とみなされたり、必死に働いているにもかかわらず周囲から「努力が足りない」とされたりして、一方的に「戦力外」とカウントされてしまう者がいるのか?

 本書の真髄は、日本の労働市場や制度設計がいかにマジョリティである「働ける者」を基準に作られているかについてや、マイノリティである「働けない者」にまつわる多くの視点を、新たにマイノリティ側から立て直すことにある。

 際立つのは、著者である栗田自身の圧倒的な周縁者ぶりだ。栗田が指摘するこの国の「普通」とは、〈日本に住む日本人、日本語話者、健常者、異性愛者でシス(生まれた時に診断された性別と性自認が一致している人を指す)男性、さらには首都圏出身などなどといった「マジョリティの詰め合わせ」みたいな存在〉。対して栗田自身は高学歴だが不登校経験のある正規雇用経験が希薄な未婚女性であり、バイトをしながら文筆活動を続けるも障害年金を受給し、生活保護を受けたこともある、文字通りの不安定労働者である。そして、そんな徹底的に社会から周縁化された立場と視点からしか出ない言葉は、読み手が無意識に座る特権の椅子を否応なく可視化する。中でも驚かされたのは〈「無断欠勤=絶対許されないこと」という頭の固さは資本主義社会の中ですらいいこととは思えない〉というパワーワードだ。

 いや無断欠勤を是とする者はさすがに戦力外カウントだろう……と、貧困当事者の不自由を代弁せんと願って著作を重ねてきた評者ですら、反射的にこう思った。シフトを組む社員やバイトリーダーからすれば、無断欠勤のバイトが出れば、穴埋めに自身がパートナーや家族との約束事をキャンセルしてでも出勤しなければ、現場が回らないではないか。だが、あくまで「働けない/働かない」の理由を、個人ではなく社会の構造上の問題として炙り出さんとする栗田の筆致に触れる中で、そんな「当たり前」は次々揺らぐ。

 バイトひとりの無断欠勤で回らなくなる現場とは何か? そのようなギリギリの人的リソースで回る現場であることで得をするのは経営者であり資本家の側ではないのか。彼らの都合になぜ労働者が合わせねばならないのか? そもそも、無断欠勤という言葉から評者の脳裏に浮かんだのがなぜ「バイト」であり、困る主体はなぜ社員やバイトリーダー、つまり適応できるマジョリティなのか。

この栗田さんという方のことはよく知らないんですが、随分過激なことをいう方だと思います。もちろん、上記記事は、いわゆる「全体発言からの切り取り」であり、栗田さんの主張を歪めて伝えている可能性もあります。

しかし、いくらなんでも〈「無断欠勤=絶対許されないこと」という頭の固さは資本主義社会の中ですらいいこととは思えない〉はないでしょう。私は、絶対的に「無断欠勤が許せないこと」であると思います(ただし、病気等により不可抗力で連絡がつかない場合を除く)。

無断欠勤がなぜいけないのか。それは、小学生でも分かる理屈です。

 「約束をやぶるからからいけないのです」

働くということは、労働者が労働をすることによって、事業主がお金を払うという約束(契約)です。ただ、この約束は事業主の立場が一方的に強い約束なので、最低限の権利(残業代、有給休暇等)を定めたものが労働基準法です。

労働者側が一方的に約束を破り労働を放棄すること(無断欠勤)が絶対的に悪いとすることが頭の固い考えだというなら、事業主が約束を破り賃金不払いを行っても絶対に悪いとは言えなくなります。

事業主の賃金不払いが絶対に悪いように、労働者の無断欠勤も絶対に悪いことなのです。

私が現役の監督官の時に、コンビニのバイトを無断欠勤して解雇された高校生の親が「高校生だから、仕方ないでしょ」と言ったことを思い出します。「あなたの息子だから、平気で約束を破るのですね。教育ですね」と、思いました。

上記の記事に出てくる栗田さんという方は、多分次のようなことを言いたかったのではないかと推測します。

「理由ある欠勤もできないような職場や境遇では、無断欠勤もしかたがない」

これなら、少しは理があるなと思いますが、被害者意識が肥大して、仲間内だけで通じる攻撃的な言葉ありきでは、素直に賛成したくなくなります。

でも、こういう人、最近増えてませんか?