労働災害が起きました(12)

CA3I1088
CA3I1088

(M氏寄贈、東天狗岳と西天狗岳)

それから数か月後の次回の局署合同の原発の臨検監督の時のことである。
局監督課から連絡が入り、局長が欠席することとなった。そして、従来の大名行列のような監督と違い、監督する行政側を数班に分け、各班ごとに原発内の監督区域の割当てはするが、コースは特に定めないこととした。

この臨検監督の実施要項の大幅な修正に、原発側は驚いたが、快く対応してもらうこととなった。監督課長に尋ねると、この方針の変更に対し、局長を始めとする局幹部の異議は特になく、「現場がやりやすいようにやってくれ。」という返答であったという。

この変更について、一番反対したのは当該署の署長である。署長は、旧来の大名行列の意義を主張し、最後には「局長が行かないのなら、自分も行かない。」と述べ、結局は監督に参加しないこととなった。

原発の臨検監督は、監督課長の指揮の元、M県の各監督署の若手監督官が結集する形で行われた。若手の監督官を主体とする新しい監督形式については、原発監督が未実施の者も多く不安の声も多かった。しかし、監督官たちは、時間外に自主的な勉強会を開催し、中堅が新監をサポートする形でこの難局を乗り越えようとした。

監督官の仕事で間違えるということは、相手に迷惑をかけることであり、責任をとらねばならない場合もある。しかし、その責任と大名行列を続け無難に監督を続けることとの選択で、私たちは「責任」を選択し、監督課長がそれを容認したのである。若手監督官たちは、課長のために、失敗は許されないことを心に命じた。

実際の監督当日、混乱は確かにあった。各班に分かれたグループの現場巡視の終了時間がまちまちであり、次の予定の書類チェックに速やかに移行できなかったのだ。今までの、大名行列では考えられないことである。

後から聞いた話によると、現場で熱心に聞いていた監督官が、原発の深部まで行ってしまい遅れたとのことであった。
遅れた班を待っていた他の者たちは、すかさずその班のフォローにあたり書類審査をした。しかし、すべてが終了した時刻は予定時刻を大幅に過ぎてしまっていた。

労働災害が起きました(11)

CA3I0425
CA3I0425

(M氏寄贈、二荒山神社)

この大名行列の監督の時に、ひとつの事件が起きた。
遠方に安全帯未使用の労働者の姿を確認した私が、その労働者の方に行こうとしたところ、いきなり発電所の担当者から
「そちらは、危険だから行かないで下さい。」
と注意されたのだ。しかし、危険作業の確認をしなければいけないと迷う私に対し、私の所属する労働基準監督署の署長から、
「何をやってんだ。」
という、今度は明らかな叱責の声がした。
署長は、行進の秩序を乱されたことを怒った。

原発の監督の数日後に、地元の新聞社の記者と話す機会があった。その記者は何度も監督署に取材に来ていたので、いつの間にか仲良くなっていたのだ。記者は次のように話し出した。
記者:「先日の原発監督たいへんでしたね。」
私は署長から怒られた件かと思い弁明した。
私 :「イヤー、恥ずかしいところお見せして、申しわけございません。」
記者:「エッ、恥ずかしかったのは、そちらの署長さんでしょ。危険なところへ行くなって、言われて行かないなんておかしいでよね。監督署の人って、危険な場所には行かないんですか。監督署の仕事って、労働者が危険な作業をしているか、確認することでしょ。」
私は何も言い返せなかった。そして、それこそ顔から火が噴き出るような恥ずかしさを感じた。

それから、数日後の局の会議の後の、恒例の局署の懇親会の席での話である。私は話しかけてきた、監督課長に思い切って、その新聞記者の話をした。監督課長は、当時40歳前後。入省当時は現場で監督官をしていたが、途中から本省で仕事をするようになり、その後は全国の労働局の監督課長等を歴任するといった、いわば監督官のエリートであった。そして、局幹部では安全衛生課長とともに、現場を知っていた。
課長は私の話を聞き、何か考え込む素振りを見せた。

労働災害が起きました(10)

CA3I0008
CA3I0008

(M氏撮影、カワラナデシコ)

新監とM安全専門官がガントリークレーンの検査に行く日は、署内は朝から大騒ぎだった。
B次長やY主任のような回りのオジサン達は、よってたかって新監の準備に口出し、挙句にこんなことを言った。
「いいか、Tさん。M専門官の言うことを聞いて、危ないことをしたらダメだよ。何か、作業している人がいるからといって、危険な個所にはいかないように。」

この言葉を聞いて、私は「これはまずい、ひとこと言わなければ」と思った。私は、かつて自分が経験した臨検監督のことを思い出した。

(私の回想)
もう30年も昔の、東北のM県の原子力発電所の定期監督の件である。
そこの局では、年1回の「定期監督」と称し、I署管内のO原子力発電所の臨検監督を実施していた。その監督では、局長の外に労働局の幹部が勢ぞろいし、マスコミを引き連れ、原子力発電所の中を行進するものであった。原発の中のルートは決められた、ただの形式に過ぎない監督であったが、本省回りの局長等は、何回も服を着替えて原子炉に近づくことだけで、現場を視察した気になるようだった。

(注) 当時、原子力発電所の監督で原子炉近辺にいくためには、「放射線用」と「放射能用」の防護服を使い分けた。服の着替えのたびに、エアシャワーを浴び、除染をするので、その着替えだけで、数十分を使用してしまう。
ついでに記載しておくと、原発の監督時に一番大切なのは、ポケット線量計の装備である。この機械の大きさは、ちょうどライター程度で、放射線の管理区域内で作業する場合に、作業服の胸ポケットに常時入れておくことが義務づけられている。そうしておくと、線量計は被曝線量を感知し記録してくれるので、作業員は毎日の作業の被曝線量を知ることができるのである。

私は、何回も炉心近くまで行っているが、線量計の記録は永年保存なので、被ばく線量は今でも厚労省に保存されている(はずである)。3.11の時、福島ではこの線量計が水に浸かり、使用不可となり、多くの労働者が線量計無しで数日間業務を行ったというが、彼らの被ばく線量が気がかりである。

労働災害が起きました(9)

CA3I0002
CA3I0002
(M氏寄贈、ヤマユリ)

海洋工事会社のA社の災害調査の報告書の作成が足踏みしている期間に、新監は所定の研修を受講し、どんどん仕事を覚え、そして、ますます増長し、生意気になっていった。

確かに、パソコンに詳しいことは頼もしい。私が作成したパワポの黒白資料を、GIFの入った鮮やかなプレゼン用に替えてくれる。エクセル、アクセスのマニアックな使い方も知っている。ただ、若い部下にそれを教わると、口では褒めちぎっても、パソコン苦手な私としては、内心は惨めになっていくのだ。

また回りのオジサン達もまた悪い。女性だからといって、新監(T監督官)を甘やかし、チヤホヤする。
ある日、こんなことがあった。
M安全専門官が私の所に来て、横浜港のガントリークレーンの検査に行くので、新監を研修として連れて行っていいかと尋ねた。
私はM安全専門官の顔をじっと見た。
実は、その時は私もまだガントリークレーンに登った経験がなく、M安全専門官には、1度検査の手伝いをさせてくれと何度も依頼していたのだ。

― こいつ、オレの頼みは忘れているくせに、新監はさっさと連れていくのかよ -

もちろん、新監の研修については断る理由は何もなく、M安全専門官の申し出はありがたいことなので、
「よろしくお願いします。」
と私は笑顔で頭を下げ、新監にはよく勉強するように命令したが、実は面白くはなかった。

(注) ガントリークレーンとは、港湾に設置されたコンテナの積込み用の大型クレーン。その形から、「鶴」に喩えられることが多い。その高さは40m程になり、検査はジブの付け根まで行くこととなるので、墜落防止措置は完璧にされているのだが、慣れている者でも高所のため足が震える。ただし、安全帯を使用し、風に吹かれてジブの先端から眺める港の姿はとても美しい。

労働災害が起きました(8)

CA3I0735
CA3I0735

(M氏寄贈、丹沢塩水川の滝)

さらに社長さんは続けた。
「足を怪我して、救急車で運ばれたN君は、今年高校を卒業してわが社に入社した子で、彼が実際にドラム缶の溶断作業をしていました。彼は海洋工事に憧れわが社を選んでくれたんですが、とても意欲的な子で、高校生の時に、ガスや潜水士の資格を取得してくれていたんです。
N君の親御さんには、ただいま連絡しました。これから病院でお会いすることとなりますが、何といってお詫びしていいか、本当に申し訳なく思っています。」
履歴書に添付されたN君の写真は、細めの美少年である。潮風で脱色しているように思えるサーファーカットから、その年齢で海の男の精悍を窺えた。

災害調査を終え、新監の運転するクルマで署に戻る途中で、私は尋ねた。
私 :「今日の災調どうだった。」
新監:「被災者の出血の跡が生々しかったです。でも、今日は災害調査の手順が覚えられて、本当に良かったです。一主任、ありがとうございました。」
私は、その優等生的な返答が少し物足りなかった。少しの沈黙の後で、新監が話かけてきた。
新監:「あの人、私と同期なんでよね。」
その言葉に、「オヤッ」と私は思った。
新監:「彼は私と同じ日に社会人になったんです。多分、とても努力して、自分がやりたい仕事を探して、あの会社に入ったと思うんですが・・・ 彼のケガはこれからどうなるんでしょう。」
私は、自分が新監だった時に、先輩から言われた事を思い出した。
― 監督官って、結局は想像力なんだ。例えば、被災者の立場を自分に置き換え共感ができる者は、きっといい監督官になる -
私はもしかしたらと思い、新監のことを少し見直した。

4月に実施した災害調査の復命書は、秋が過ぎ、12月になっても完成しなかった。肝心の被災者のN君から事情聴取ができないのである。
軽傷で休業もしなかった被災者のU氏からは、すぐに話がきけた。しかし、N君は「大腿部骨折」という重症で、その後2回手術をし、6ヶ月後もまだ入院していた。そしてメンタルが不調であるという理由から、親御さんからの事情聴取の許可が得られなかったのだ。ようやく、彼との面談の許可が下りたのは11月の終わりであり、私がお見舞いがてら、彼の入院している病院に行くこととなった。