万葉集と申告(4)

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(続き)

大化の改新により、蘇我氏から権力を奪還した英雄天智天皇は、その弟である大海人皇子より妻の額田王を取り上げる。額田王は、この2人の男性の列席する宴会で、他の大勢の者たちの見守るなかで、かの有名な歌を披露する。

「茜さす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる」
(紫草の咲く野を、標野を行くとあなたが袖を振って合図なさった。野守にそれを見られてしまったのではないでしょうか)

自分を見捨てた大海人皇子に対する怨歌である。
すると、大海人皇子は次のような返歌をする。

「紫草のにほゑる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも」
(紫草のように美しい、匂うがごときあなただから、人妻なのに私は恋をしているのだ)」
これもまた、変わらぬ心を詠った恋歌である。

大勢の目の前で堂々とこの歌のやり取りを、妻と弟がするなら、天智天皇も苦笑いをするしかなかったのだろうが、心中はどうであっただろうか。

そして天智天皇崩御の後、大海人皇子は天智天皇の子である大友皇子に叛旗を翻し、史上名高い「壬申の乱」に突入していくのである。
多分、大海人皇子(後の天武天皇)はマキャベリストの政治家だったのだろう。実力者の天智天皇の崩御の後に、冷酷に天皇の地位を簒奪したことが事実なのだと思う。
しかしそれでは、歴史愛好家達(歴史オタク)は面白くない。ここは、何が何でも、女を天皇に取られた情けない王子が、その女の非難と挑発をこめた勇気ある行動に奮起し、剣を取り革命を志したと思いたいのである。「臆病者を勇者に変えるのは女性だけ」そんな西洋の諺を信じていた方が人生は楽しいのである。

そして、この料亭のオーナーの老人は、まさしくその類の人だった。

(続く)

万葉集と申告(3)

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(頂きものの写真です)

(続き)

その料亭(A亭)を訪問したのは、秋も深まった季節で、紅葉が美しい小高い山の麓にその料亭は所在した。私が案内された応接室は、それは華やかなものだった。骨董品を見る目がなくとも、それとなく分かる高価なアンティークなソファに座らされ、壁には値段の高そうな絵とその隣には、時のイギリス首相がこの料亭の前で撮影したと思われる写真が飾られていた。やがて、オーナーと名乗る人があらわれた。もう大分高齢の老人で、渡された名刺には「M・K」と印刷されていた。その苗字は日本の旧財閥の名称と同じものだった。
その老人は、威厳に満ちた顔つきと態度で、私に対し、淡々と、自分がなぜ賃金を支払っていないかを説明し、労働者の不実を責める言葉をひとしきりに述べた。
そして、話の区切りにお茶を一口飲むと、数秒私の顔を見つめていた。そして、突然こんな質問をした。
「あなたは、額田王(ぬかたのおおきみ)を知っていますか。」
私の頭はこの突拍子もない質問に混乱した。ただ、話を合わせることにした。この質問の解答のヒントについては、偶然数日前に読んだ永井路子氏の著書に書かれていたことを思い出した。
私は答えた。
「あのー、額田王ですか。壬申の乱の」
その言葉を聞くと、老人の顔つきはすっかり変わり、笑顔満面となり、学生を指導する老教授といった雰囲気になった。そして、自分は額田王の研究をしていると言った。
私はそれに対し、永井路子氏の著述と手塚治虫氏作「火の鳥・太陽篇」でそのことを知ったと説明したところ、老人は、私が額田王を知っていた事実に興奮し、ものすごい勢いで話し出した。

(続く)

万葉集と申告(2)

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(頂きものの画像です)

労働者が急に退職し、会社に損害を与えたというケースの考え方は次のとおりである。
①賃金は全額、支給日に支払われなければならない。
②「会社に損害」を与えたというなら、会社は労働者のその行為によって、ⅰ)「いくら損害を被ったかの金額」の特定、ⅱ)前述の金額と労働者の行為との因果関係の立証を行ない、ⅲ)労働者に請求しなければならない。そして、その金額を労働者が同意するのなら、労働者が支払わなければならない。もし、労働者がこれに納得しなければ、第3者にその会社の主張の理非を尋ねなければならない。つまり、民事事件における裁判所の介入である。
③労働者が合意しない限り、「確定した債権の賃金」と「未確定な損害額」の相殺はできない。
④悪質な、事業主による労働者の足止めのための嫌がらせは、すべて労働基準法違反である。例えば、あらかじめ預かり金を徴収しておいてそれを返還しないとか、退職を認めないとかの主張は、すべて無効である。ただし、ⅰ)予告なく退職し、それが就業規則で定める制裁規定に反していた場合は 日給額の半額までは減額できる。ⅱ)賃金の締切前に辞めたことを理由に、「皆勤手当」の支払拒否はできる

労働者が本当に悪い場合もある。経営者がこれじゃ給料を払いたくないなと同情することも労働基準監督官としてはある。例えば、私が経験したことだが、飲食店(レストラン)での話だが、コックがパーティの1時間前に事業主とケンカをし、職場放棄をしてしまったため、結局店が信用を落とし、経営が傾いてしまったことがある。
これなんぞ、明らかに裁判をやれば店が勝つが、それでも給料日は所定支払日に全額支払われなければならないのだ。

今回、賃金不払いの申告のあった鎌倉の料亭は、過去に労働者による申告は1件もなかった。つまり、少なくとも過去においては、労使間のトラブルはなかったと推定される。
さて、どんな事情があるのかと、私は未処理の申告処理台帳を眺めた。

万葉集と申告(1)

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(頂きものの画像です)

今回からは、安全衛生の話は少しおやすみ。労働基準法関係の賃金不払いの申告の話。

約20年前に私は藤沢労働基準監督署に勤務していた。藤沢署は藤沢市以外に隣接する鎌倉市と茅ヶ崎市と寒川町を管内にもつ、いわゆる「湘南労働基準監督署」である。
現在の藤沢労働基準監督署はJR藤沢駅から徒歩5分の所に所在するが、当時の署は駅から徒歩約20分の一遍上人が建立した時宗総本山の遊行寺の近くの、境川のほとりにあった。
遊行寺は国宝、重要文化財を所有する歴史遺産であるが、「捨聖」と尊称される一遍上人縁の寺らしく、華美絢爛なところがなく、ただ季節の花が美しい古い寺といった風情だった。私は、入場料も取らないこの寺に、昼休みなどよく遊びに行った。
遊行寺近くのカフェで、時々作家の永井路子氏を見かけた。永井氏は、「草燃ゆ」「毛利元就」といったNHK大河ドラマの原作者であり、中世から近代を舞台にした小説の名手である。鎌倉市在住であるが、足を延ばし遊行寺近くまで散策に来ていたのである。
そんなことで、永井氏に親近感を覚えた私は、当時永井氏の作品をたくさん読破した。どれも、歴史の英雄の裏の姿を永井氏独特の分析で生き生きと描いたものだった。

さて、前置きが長くなったが、その藤沢署勤務時代に永井氏の本を読んでいたため、仕事がうまく行った時の話である。

その賃金不払い事件は、ありふれた退職時のトラブルが原因のものだった。急に辞めた(と事業主が主張する)労働者に対し、事業主が最終回の支払いを拒否したのだ。事業主は労働者が即日退職したことで、会社に損害を与えたと主張している。
ただ、普通の事件と多少違うところは、鎌倉の名の通った料亭が舞台という点である。

私は建設現場の監督で恥をかきましたー外伝(5)

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(続き)
S次長の権幕に気が飲まれたのか、男達は口を開かなかった。すると、Y監督官がS次長に、言いづらそうに話した。
「今回の事故は職長の見回りミスということもあって・・・」
そのY監督官の言葉を聞いて、一番威張っていた男が勢いづいて話した。
「そうです。今回の事故の原因は、現場作業員のミスです。」

私の隣のA女史が舌打ちした。
「あの馬鹿!」
私もY監督官のことをそう思った。

S次長が腕組をしながら答えた。
「なるほど、現場作業員のミスで今回の事故が起きたということですか。会社は一生懸命事故防止に努めたのに、現場作業員が台無しにしたということが、あなた方の結論ですな。」
S次長は、4人の男を睨みつけながら続けた。
「それは悪い作業員ですな。けしからん奴ですな。そいつがいなければ今回の事故は起きなかったという訳ですな。分かりました。ところで、その現場作業員の懲戒解雇の日はいつですか、教えて下さい。」
「えっ」
S次長の言葉に男達は驚いたようだった。
S次長の言葉がひときわ高くなった。
「当たり前だろ。被災者はまだ意識がもどらず寝たきりだ。作業員が原因で事故が起きたというなら、そこまで覚悟ができてるんだろ。その作業員相手に民事裁判はやるのか。刑事告発はするのか。」

数十秒の間の沈黙の後でS次長が口を開いた。静かな口調だった。
「被災者はまだ意識がもどらず寝たきりでいます。そんな事故の原因がどこにあったのか、どうしたら2度とその事故を起こさないですむのか。元請けと現場がもう1度検討して下さい。
労働基準監督署はそのことでしたら、いつでも、何度でも相談に乗りますから、私のところに来て下さい。
労働基準監督署があなた方と話すことは他には何もありません。
事故のことで、労働基準監督署に謝罪するなんてことはしなくていいです。謝罪なら被災者にして下さい。
よろしく、お願いします。」
S次長は頭を下げた。4人の男達は立ち上がると、後ろに控えていた男達を連れて黙って出て行った。

私はA女史に言った。
「終わったようですね。でも、今後どうなるんだろ。」
A女史は答えた。
「さあ、向こうも大人だから、もう一度再発防止措置を考えてくるんじゃない。」
「でも、S次長大丈夫かな。少し、ケンカ腰過ぎたようだけど。」
「大丈夫よ。ほら」
と言ってA女史は入り口の方を示した。

先ほど、4人の後ろに控えていた作業服姿の男の中の一人が、何か忘れ物を取りに来た様子で戻ってきた。
そして、S次長に向かい深々と頭を下げて一礼すると、何も言わずに事務所を出て行った。

(終わり)