労働災害が起きました(16)

%e9%83%bd%e7%95%99%e5%b8%82%e3%83%bb%e6%97%a7%e5%b0%be%e7%9c%8c%e5%ad%a6%e6%a0%a1
(M氏寄贈、都留市・旧尾県学校)

さて、爆発災害の被災者への事情聴取であるが、11月も終わりのある日に、被災者が入院する病院に行くことで、被災者及びその家族の承諾を得た。その日は、あいにく新監の都合が悪かったので、私一人が病院へ行くこととなった。

その病院は三浦半島の主要都市にある Y共済病院だった。被災者のNは個室を与えられていた。看護人は誰もいなくて、私は一対一で彼と話しをした。
彼はまず、横になったまま話をする非礼を詫び、毎日リハビリはあるが車イスでなければ動けないという説明をしたが、そのことを話すのに2,3分はかかっただろうか、口ごもり、私に言葉を惜しむように訥々と話をした。
元々は快活な性格だが、事故の治療に精神的に相当まいっているという、事前の情報のとおりであった。

事故の前の彼の写真から、彼のことが想像できる。彼は海がとても好きで、スポーツ好きの健康な若者だったのだろう。そして、彼は夢を持ち、努力して就職した。その彼の肉体が、今彼を裏切り、コントロールできないようになってしまっている。鬱になるのは当然である。
(注) 私事であるが、私は3年前に、ようやく彼の当時の状況が実感できた。私はギランバレーという神経の病気になり、わずか3日で四肢が動かなくなった。その3日間に一睡もできず、4日目に意識を失ったが、その意識を無くしている最中に大声で喚き続けたということである。肉体が自由を失う時に人は発狂する。

具合はどうかと尋ねる私に対し、彼は「良くないです」と答えた。
職場の人は見舞いに来るかという、私の質問に対し、「週に2,3回は、社長さんか、専務さんか、工場長さんがお見舞いに来てくれます。」と答えた。
家族の事、生活の事について尋ねると、「母は毎日来てくれますが、泣いてばかりです。会社が面倒みてくれているので、生活に特に支障はありません。」ということだった。
雑談の後に、思い切って会社復帰の件について尋ねると、「今はそんなこと考えられません。職場のことはもう考えたくありません。やめようと思っています。」
と答えた。

労働災害が起きました(15)

CA3I0048
CA3I0048

(M氏寄贈、四国・剣山山系)

私は、B次長やY主任に「ガントリークレーンの検査で危ないとことに、行くんじゃない。」と注意されている新監に声をかけた。
「あのー、Tさん。今日の検査なんだけど。」
「分かってます。」
新監が私の話を何も聞かずにこう答えた。

私は驚き尋ねた。
「分かっているって、何が?」
新監は答えた。
「一主任は、監督官は最も危険な場所へ行くべきだと、おっしゃりたいんでしょ。そして、もしそこで労働者が本当に危険な作業をしているのなら、その作業について、『作業停止』を命じて来いという事でしょ。」
新監は、さらに続けた。
「一主任は今まで繰り返し、原発監督の話をしてくれました。それはいい話だと思います。だけど、『監督官の神話』も『美学』も、繰り返されれば、ただの自慢話です。」

そう言えば、「物忘れが激しくなり、同じ話を繰り返すようになった」と、妻に指摘されていたことを、私は思い出した。しかし、「監督官の神話」とはうまい事を言うと思った。「神話」がない仕事なんて、つまらないからである。

(注) 「作業停止命令」とは、労働安全衛生法第98条に基づく行政命令。命令には「使用停止」「変更命令」「立入禁止」と色々あるが、すべて同法に基づくものである。
この法の第1項及び第2項は労働基準局長と労働基準監督署長がこれらの命令をできることが規定されている。労働基準監督官は通常、行政内部で厳格に定まっている基準を適用し、現場で同命令を発する。
しかし、同法第3項は、「労働者に急迫した危険がある場合」に労働基準監督官が現場で同命令を行えることを定めたものであり、法理論上は労働基準監督官は、単独で「命令」を発することができる。例えば、洪水の危機にさらされている、工事現場の作業員に対し、独断で避難を命令できる。
当該命令に従わない場合には、刑事事件として、立件することとなる。
この「使用停止等命令権限」は「立入調査権限」「特別司法警察員権限」と伴に、労働基準監督官の権威を担保する権限である。
もっとも、現場でこの権限を行使しようとすれば、後から行政内部に対し明確な説明ができなくてはならず、全責任は当該監督官が負うので、辞表覚悟でなきゃ使えない権限でもある。
私も、退職まで「署長名」で、つまり行政内部の規範に従って、この命令を発したことはあるが、単独で使用したことはない。

労働災害が起きました(14)

CA3I0028
CA3I0028

(M氏寄贈、小湊鉄道・昭和の風景)

所長は話した。
「本日の監査は、従来よりも大変厳しく、深いものでした。しかし、それ故に原発のことをより知って頂いたのではないかと思います。ただ今、原発を巡る世間の目はたいへん厳しいものを感じています。この逆風の中で、原発に対する理解を得るために必要なことは、原発を皆様に見て頂く、知って頂くということが一番大切であると思います。私は、本日の監査について、皆さまが原発のことをとても勉強してきて頂いたと思います。私はそのことに深く感謝します。」
所長のスピーチからは、所長が自分の職業にかける誇りと信念が感じられた。

この所長の言葉が何を意味するのかは、後に監督官同士で話題となった。「意味のない社交辞令」「通常より時間が掛かり手際が悪かったことへの皮肉」という見方があったが、今までの「大名行列」はやはり侮蔑の対象だったのだなということで何となくみんな納得した。
こうして、「監督官は危ないところに行かないのですか。」という新聞記者の一言から始まった、原発監督は終了した。

(注)「3.11」のあった日に、その原発のある町にも津波は押し寄せ、町を壊滅的な崩壊へと追い込んだ。
その日の夜に、行き場のない人々は、建物がしっかりしていると思われた原発を尋ね、保護を求めた。その原発もやはり津波の被害にあっていたが、職員たちは100人以上の人々を構内に招き入れ、自分たちの毛布や食料を提供し、1ヶ月以上に渡って世話をした。
私はその話を聞いた時に、30年以上前の原発所長の話を思い出した。

(これで、私の回想は終わります。「危険なところに行くべきでない」という、他の職員が、新監へ述べた言葉について、私がどう思ったかについて、説明をしようと思ったら、「原発監督」ことを長く書き過ぎてしまいました。
今後、元のテーマに戻ります。もっとも、この章のテーマは、「傍若無人の新監」ということでなく、あくまで「労働災害が起きました」です。)

労働災害が起きました(13)

CA340186
CA340186

(M氏寄贈、「雨上がりの南アルプス」)

監査の最後は講評会である。
監査結果は当然、後日の行政側が交付する文書により明らかとするが、取敢えず当日中に会社側に監査結果を伝え、安全関係で緊急を要する措置が必要な場合等をその場で指示するのである。講評には、原発所長を頂点とした100人を超える会社関係者が出席する。それに対し、監査を行った行政側もまた全員が講評に出席し、気づいたことを指摘するのである。

講評会は、まず行政側の監査結果の発表から始まる。例年であれば、それは労働基準監督署長の仕事である。しかし、この時は署長が参加していないので、監督課長が発言した。

昨年までは、署長は話すことを事前に用意し、それを文書にし、10分間ほど読み上げた。つまり演説をしたのである。

しかし、この時の監督課長の発言は違った。監督課長は冒頭にこう述べた。
「さすがに、安全を重視する原子力発電所です。御社の安全管理体制については、他社の見本となる素晴らしいものでした。従って、重箱の隅をつくような細かい指摘となりますがご容赦下さい。」
そして監査を行った各監督官の指摘事項をメモしたものを、淡々と読み上げるたが、その指摘事項には、どこそこのボンベの転倒措置がなされていなかった、塗装の際の作業主任者名の掲示がされていなかった等の細かい指摘であり、それが30項目程度続いた。そして、監督課長は最後にこう述べた。
「細かい指摘が多いと思われるかもしれませんが、災害は細部から起きるケースが多いのです。これらの事項は我々が全力を挙げ調査した結果、指摘することです。」

監督課長の発言の後で、原発所長の返礼が行われた。所長は次のように述べた。
「本日はたいへんお忙しい中、わが所の安全衛生のため、御視察を頂き本当にどうもありがとうございました。」

ここまでは、昨年と一緒だった。例年なら、この後に次のように続く。
「ただ今、労働局及び監督署の方から、御指摘頂いたことを肝に銘じ、より一層の労働安全衛生の改善に努めてまいります。」
しかし、この時の所長の言葉は違った。

労働災害が起きました(12)

CA3I1088
CA3I1088

(M氏寄贈、東天狗岳と西天狗岳)

それから数か月後の次回の局署合同の原発の臨検監督の時のことである。
局監督課から連絡が入り、局長が欠席することとなった。そして、従来の大名行列のような監督と違い、監督する行政側を数班に分け、各班ごとに原発内の監督区域の割当てはするが、コースは特に定めないこととした。

この臨検監督の実施要項の大幅な修正に、原発側は驚いたが、快く対応してもらうこととなった。監督課長に尋ねると、この方針の変更に対し、局長を始めとする局幹部の異議は特になく、「現場がやりやすいようにやってくれ。」という返答であったという。

この変更について、一番反対したのは当該署の署長である。署長は、旧来の大名行列の意義を主張し、最後には「局長が行かないのなら、自分も行かない。」と述べ、結局は監督に参加しないこととなった。

原発の臨検監督は、監督課長の指揮の元、M県の各監督署の若手監督官が結集する形で行われた。若手の監督官を主体とする新しい監督形式については、原発監督が未実施の者も多く不安の声も多かった。しかし、監督官たちは、時間外に自主的な勉強会を開催し、中堅が新監をサポートする形でこの難局を乗り越えようとした。

監督官の仕事で間違えるということは、相手に迷惑をかけることであり、責任をとらねばならない場合もある。しかし、その責任と大名行列を続け無難に監督を続けることとの選択で、私たちは「責任」を選択し、監督課長がそれを容認したのである。若手監督官たちは、課長のために、失敗は許されないことを心に命じた。

実際の監督当日、混乱は確かにあった。各班に分かれたグループの現場巡視の終了時間がまちまちであり、次の予定の書類チェックに速やかに移行できなかったのだ。今までの、大名行列では考えられないことである。

後から聞いた話によると、現場で熱心に聞いていた監督官が、原発の深部まで行ってしまい遅れたとのことであった。
遅れた班を待っていた他の者たちは、すかさずその班のフォローにあたり書類審査をした。しかし、すべてが終了した時刻は予定時刻を大幅に過ぎてしまっていた。