万葉集と申告(2)

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労働者が急に退職し、会社に損害を与えたというケースの考え方は次のとおりである。
①賃金は全額、支給日に支払われなければならない。
②「会社に損害」を与えたというなら、会社は労働者のその行為によって、ⅰ)「いくら損害を被ったかの金額」の特定、ⅱ)前述の金額と労働者の行為との因果関係の立証を行ない、ⅲ)労働者に請求しなければならない。そして、その金額を労働者が同意するのなら、労働者が支払わなければならない。もし、労働者がこれに納得しなければ、第3者にその会社の主張の理非を尋ねなければならない。つまり、民事事件における裁判所の介入である。
③労働者が合意しない限り、「確定した債権の賃金」と「未確定な損害額」の相殺はできない。
④悪質な、事業主による労働者の足止めのための嫌がらせは、すべて労働基準法違反である。例えば、あらかじめ預かり金を徴収しておいてそれを返還しないとか、退職を認めないとかの主張は、すべて無効である。ただし、ⅰ)予告なく退職し、それが就業規則で定める制裁規定に反していた場合は 日給額の半額までは減額できる。ⅱ)賃金の締切前に辞めたことを理由に、「皆勤手当」の支払拒否はできる

労働者が本当に悪い場合もある。経営者がこれじゃ給料を払いたくないなと同情することも労働基準監督官としてはある。例えば、私が経験したことだが、飲食店(レストラン)での話だが、コックがパーティの1時間前に事業主とケンカをし、職場放棄をしてしまったため、結局店が信用を落とし、経営が傾いてしまったことがある。
これなんぞ、明らかに裁判をやれば店が勝つが、それでも給料日は所定支払日に全額支払われなければならないのだ。

今回、賃金不払いの申告のあった鎌倉の料亭は、過去に労働者による申告は1件もなかった。つまり、少なくとも過去においては、労使間のトラブルはなかったと推定される。
さて、どんな事情があるのかと、私は未処理の申告処理台帳を眺めた。

万葉集と申告(1)

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今回からは、安全衛生の話は少しおやすみ。労働基準法関係の賃金不払いの申告の話。

約20年前に私は藤沢労働基準監督署に勤務していた。藤沢署は藤沢市以外に隣接する鎌倉市と茅ヶ崎市と寒川町を管内にもつ、いわゆる「湘南労働基準監督署」である。
現在の藤沢労働基準監督署はJR藤沢駅から徒歩5分の所に所在するが、当時の署は駅から徒歩約20分の一遍上人が建立した時宗総本山の遊行寺の近くの、境川のほとりにあった。
遊行寺は国宝、重要文化財を所有する歴史遺産であるが、「捨聖」と尊称される一遍上人縁の寺らしく、華美絢爛なところがなく、ただ季節の花が美しい古い寺といった風情だった。私は、入場料も取らないこの寺に、昼休みなどよく遊びに行った。
遊行寺近くのカフェで、時々作家の永井路子氏を見かけた。永井氏は、「草燃ゆ」「毛利元就」といったNHK大河ドラマの原作者であり、中世から近代を舞台にした小説の名手である。鎌倉市在住であるが、足を延ばし遊行寺近くまで散策に来ていたのである。
そんなことで、永井氏に親近感を覚えた私は、当時永井氏の作品をたくさん読破した。どれも、歴史の英雄の裏の姿を永井氏独特の分析で生き生きと描いたものだった。

さて、前置きが長くなったが、その藤沢署勤務時代に永井氏の本を読んでいたため、仕事がうまく行った時の話である。

その賃金不払い事件は、ありふれた退職時のトラブルが原因のものだった。急に辞めた(と事業主が主張する)労働者に対し、事業主が最終回の支払いを拒否したのだ。事業主は労働者が即日退職したことで、会社に損害を与えたと主張している。
ただ、普通の事件と多少違うところは、鎌倉の名の通った料亭が舞台という点である。

私は建設現場の監督で恥をかきましたー外伝(5)

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(続き)
S次長の権幕に気が飲まれたのか、男達は口を開かなかった。すると、Y監督官がS次長に、言いづらそうに話した。
「今回の事故は職長の見回りミスということもあって・・・」
そのY監督官の言葉を聞いて、一番威張っていた男が勢いづいて話した。
「そうです。今回の事故の原因は、現場作業員のミスです。」

私の隣のA女史が舌打ちした。
「あの馬鹿!」
私もY監督官のことをそう思った。

S次長が腕組をしながら答えた。
「なるほど、現場作業員のミスで今回の事故が起きたということですか。会社は一生懸命事故防止に努めたのに、現場作業員が台無しにしたということが、あなた方の結論ですな。」
S次長は、4人の男を睨みつけながら続けた。
「それは悪い作業員ですな。けしからん奴ですな。そいつがいなければ今回の事故は起きなかったという訳ですな。分かりました。ところで、その現場作業員の懲戒解雇の日はいつですか、教えて下さい。」
「えっ」
S次長の言葉に男達は驚いたようだった。
S次長の言葉がひときわ高くなった。
「当たり前だろ。被災者はまだ意識がもどらず寝たきりだ。作業員が原因で事故が起きたというなら、そこまで覚悟ができてるんだろ。その作業員相手に民事裁判はやるのか。刑事告発はするのか。」

数十秒の間の沈黙の後でS次長が口を開いた。静かな口調だった。
「被災者はまだ意識がもどらず寝たきりでいます。そんな事故の原因がどこにあったのか、どうしたら2度とその事故を起こさないですむのか。元請けと現場がもう1度検討して下さい。
労働基準監督署はそのことでしたら、いつでも、何度でも相談に乗りますから、私のところに来て下さい。
労働基準監督署があなた方と話すことは他には何もありません。
事故のことで、労働基準監督署に謝罪するなんてことはしなくていいです。謝罪なら被災者にして下さい。
よろしく、お願いします。」
S次長は頭を下げた。4人の男達は立ち上がると、後ろに控えていた男達を連れて黙って出て行った。

私はA女史に言った。
「終わったようですね。でも、今後どうなるんだろ。」
A女史は答えた。
「さあ、向こうも大人だから、もう一度再発防止措置を考えてくるんじゃない。」
「でも、S次長大丈夫かな。少し、ケンカ腰過ぎたようだけど。」
「大丈夫よ。ほら」
と言ってA女史は入り口の方を示した。

先ほど、4人の後ろに控えていた作業服姿の男の中の一人が、何か忘れ物を取りに来た様子で戻ってきた。
そして、S次長に向かい深々と頭を下げて一礼すると、何も言わずに事務所を出て行った。

(終わり)

私は建設現場の監督で恥をかきましたー外伝(4)

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(続き)
S次長は、男達を見回した。
「今、話したのは誰ですか。そんなことを話に来たのではないと聞こえましたが。」
S次長は、一番威張っている男の隣で、腕を組んでいる眼鏡の男を見た。
「あなたですか。それじゃ、あなた方は何しにいらしたんですか。」
S次長の話し方は丁寧だったが、それだけに迫力があった。

S次長はY監督官に向かって言った。
「おい、是正報告書を見せろ。」
Y監督官は1枚の書類をS次長に渡した。S次長はその書類に目を通し、男達に尋ねた。
「これだけですか」
どうやら是正報告書は1枚だけだったようだ。

斜め後方で様子を伺っていた私とA女史は顔を見合わせた。
「ひどい」
A女史はつぶやいた。
「勘違い会社だな」
と私は答えた。

是正報告書とは企業が労働基準監督署に提出する最終的な事故報告である。それには、企業が今回の災害に対し、どう考え、どう対処するのか記載されていなければならない。企業の代表者が労働基準監督署長宛てに提出されるのが常である。
常識的なゼネコンであるなら、その書類には、会社側が追及した事故原因が記載され、その特定した原因を基に樹立した再発防止措置が記載される。さらには、再発防止措置を当該企業だけでなく、下請け・協力業者に徹底させる方策が盛り込まれ、被災労働者にどのような補償をしたかが記載されることもある。
是正報告書は企業がどれだけ真摯に災害と向き合っているかを示す書類でもあるのだ。

S次長はその一枚の紙を片手に持つと、眼鏡の男の顔にそれを突き付けた。
「あなたは、何しにここに来たんです。この書類は、そちらの会社の社長の判がついたもので、『すみません。もう事故は起こしません』と書いてある。私はこの書類に書かれていることを尋ねているんですが。」
どうやら、是正報告書には、2,3行で「事故はもう起こさないように注意します」とだけ書かれていたようである。
しかし、このS次長の態度はやり過ぎだと私は思った。
(続く)

私は建設現場の監督で恥をかきましたー外伝(3)

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(続き)
X社の4人の男の態度は不遜だ。Y監督官を見下して話している。「わが社は決して、安全管理を指摘されるような会社ではない。」しゃべっているのは社内の地位が高そうな太った男。まるでパワハラ上司が部下を説教するように話す。

また、担当のY監督官も、あまり良くない。彼は頭はいいのだが、気が弱く、人を説得できない。現場でいかに仕事をおさめるかよりも、上司の評価を気にするタイプ。署の監督官でいるより、早く出世して、局や本省で現場に関係ない仕事をすることが似合うタイプだ。

X社の男の声がひときわ高くなった時に、Y監督官の後ろで聞いていた次長のS次長が動いた。Y監督官の隣に座り、X社の4人と対峙した。

私の隣のA女史が、私に向かい小声で話した。
「もめるわよ。」
私は尋ねた。
「どうして」
A女史は答えた。
「あの人たちね、この署にくる前に挨拶だとか言って、局に先に言ったのよ。そして、ここに来る前に署長のところに行ったの。署長も管内の有力企業の偉いさんが来たから相手をした。それから、ここへ来てY監督官に回りに聞こえるように、文句を言っている。
Y監督官も確かに悪い。何が悪いのか説明不足の点がある。
でもね、あのX社の一番偉そうな男は、自分が偉いんだっていうことを、下請けの人たちに見せつけるために、彼らを今後ろに立たせているんでしょ。」
A女史の声は、期待に満ちてとても弾んでいた。
S次長の欠点はケンカ早いことである。

S次長は、4人に次々と名刺を差し出した。そして、いきなり尋ねた。
「それで、今回の災害はなぜ発生したんですか?」
男達はS次長の突然の言いように面食らったようだった。
S次長は続けた。
「そして、再発防止措置を説明してくれますか。」
4人の男のうちの一人が何か言った。
「今は、そんなことを話しているんではない。」

(続く)