賃金不払い事件(5)

(杖付峠からの八ヶ岳連峰、by T.M)

賃金不払い事件の続きです。

前回までは、監督官が送検する賃金不払い事件について、如何に検事さん達が冷たい態度を取るかを書いてきましたが、熱心に捜査について、監督官を指導して下さることもあることをお知らせします。

私は、監督官在任中は20件以上の賃金不払い事件を、主任捜査官として書類送検してきました。自分の部下の事件を加えると、100件近くの事件に関与してきたと思います。自分が担当者として送検したなかで、起訴され有罪にされた賃金不払い事件は2件だけです。他の事件は、すべて検事が「起訴猶予処分」とし、不起訴としました。その有罪になった2件とは、どちらも「倒産がらみの賃金不払いでなかった」という共通点があります。

要するに、検事さん達は「ささいな理由で賃金不払いを繰返す会社(例え、それが少額であったとしても)」や「いわゆるブラック企業」の賃金不払い事件については、非常に熱心な姿勢で事件に取組んで下さるのです。従業員の賃金について、「そんなもんより学会の方が大事だ。だから給料が送れることもある」と言い訳して居直り、賃金不払いを繰返したある知的職業の経営者に対する捜査について、「ガサや逮捕を恐れるな」と言って励ましてくれた検事さんもいました。

今回、横浜南労働基準監督署が賃金不払事件で書類送検した「ハレノヒ」の社長は、別件で捜査中と新聞報道された「詐欺罪」と一緒でなく、「賃金不払い」の単独の事件として取扱われるなら、不起訴の可能性が高いと思います。普段、「強盗」や「殺人」等の事件の犯人と接している検事さんから見れば、倒産間際の金策に必死で駆けずり回った末に犯してしまった賃金不払いの犯人は決して悪人には思えないのではないでしょうか.

もっとも「ハレノヒ」の事件について言えば、横浜南署としては、不起訴の可能性があることは百も承知。このような事件を書類送検すれば、マスコミが取り上げてくれ類似犯罪の防止対策となるので、新聞記事になった事件で目的は達成されたいうことになります。

 

賃金不払い事件(4)

(武蔵野の面影、平林寺の山門、by T.M)

全国産業安全衛生大会が10月17日(水)から19日(金)までの3日間に横浜で開催されます。自宅の近所での開催なので、今年は見学に行こうかと思っていたのですが、19日にある法令研修の「労働基準法」の講師をすることになりまして、前々日から資料作り等をしなければならず、行けなくなりました。残念です。

その講習についてですが、「労災保険の事務手続き」について疑義が生じまして、昨日(土曜日)の正午ごろに某地方労働局の監督署勤務の労災担当官のスマホに電話をし、法的見解を求めたところ、なんと彼は職場で執務中でした。彼の説明によると、今年の4月から監督課の職員を増員した替わりに、労災課の職員を2割カットされたことで、毎週のように休日出勤しているとのことでした。民間企業の働き方改革を推し進める割には、労働局は相変わらず長時間労働なんだなと思いました。

さて、賃金不払い事件の話の続きです。

検事と労働基準監督官の賃金不払い事件に対する認識の相違は、「賃金の支払の確保等に関する法律」に基づく未払賃金の立替払いの取扱いで最も大きくなります。「賃確」(チンカク)と称されるこの事務手続きは、以前に書きましたが、労災保険料を原資として、倒産により賃金が未払となった賃金について、事業主に替わり国が立替える制度です。事業主が裁判所に破産申請し、法的な倒産をした場合は破産管財人が事務手続きを行い、事業主の夜逃げ等の事実上の倒産の場合は監督署が事務を取扱います。この未払賃金には退職金も含まれ、最大立替払額は約300万円となります。そして、この立替払いされた金銭が労災保険の資金に返還される可能性はほぼありません。

監督署が、この賃確について恐れることは、この制度が濫用されることです。つまり、倒産間近の事業主が「どうせ従業員の賃金は、国が立替えるのだから資金を別に回そう」と考え、賃金を支払う努力をやめてしまうことです。

要するに、従業員の賃金の支払いを第一として、正直に経営してきた経営者が、「なんだ、どうせ国が立替えてくれるのなら、もっと資金の別の使い道を考えれば良かった。損をした。」と思われたら、行政は困るのです。そのため、監督署は自ら賃確の事務手続きを行った事業場については、建前上必ず書類送検します。もっとも、法律的倒産をした事業場については、破産管財人が事務手続きをするので、今回の「ハレノヒ」のような特殊なケース(つまり社会的な話題となったこと)を除いては、司法手続きをしないのですから、けっこう送検基準もいい加減なところがあります。

このように、監督署サイドでは「賃確イコールけしからん」の雰囲気が強いのですが、検事サイドではまったく違う考えをもちます。30年程前に、よくこの制度について考えが至らぬマヌケな監督官(つまり「私」のことです)が、送検理由に行政が賃確手続きを行ったことを挙げた時に、検事に次のように怒られました。

「君はアホか。立替払いは、一生懸命に仕事をしてきた事業主と労働者のセーフティーネットだろ。行政がめんどくさい事務手続きを押し付けられたといって、ケシカラン罪で送検するものじゃない。」

そう言って検事は、未払賃金の額から「立替払い額」を控除し、犯罪事実としたのでした。

 

賃金不払い賃金(3)

(新座市の野火止め用水、by T.M)

倒産がらみの賃金不払い事件で、検事が監督官に命じる期待可能性の有無の捜査とは、要するに「所定賃金支払日に被疑者に金がなかったら、ない袖は振れないのだから、賃金不払いは犯罪行為とならない。当日に資金がないとしても、事前に不急不要なものに資金を使ったかどうかを調査しろ」ということなのです。

恐ろしいことに、この「不要不急な支払い」の中に「手形の決算等」は含まれないのです。手形を不渡りにしてしまえば、会社は銀行取引停止処分となります。つまり倒産です。倒産を回避するための金策は賃金の支払いより、刑事事件的には優先されるという考えです。いくら倒産時の債権の分配については、税金・社会保険料・労働債権は先取特権があると説明しても、検事には通用しません。

ところで、「ハレノヒ」の賃金不払い事件について、果たして経営者は「会社の存続を目的とした経費」以外のことに資金を遣っていたでしょうか。多くの経営者は、景気がいい時には、スポーツカーや絵画等の贅沢品に手を出しますが、いざ会社が傾いてくると、やはり会社の存続を第一とした金の使い方をするものです。従って、倒産がらみの賃金不払い事件の捜査は困難を極めることになります。

今回の「ハレノヒ」の賃金不払い事件について、横浜南労働基準監督署が送検したのは、「昨年の8月1日から8月31日までの賃金」についてです。「ハレノヒ」の事業停止日は今年の成人の日の「1月8日」ですから、今回特定した法違反の後も継続して賃金が未払であったことになります。それを事業停止日の5ヶ月前の法違反のみに止めたということは、その期間ならまだ期待可能性の立証が可能なものであり、それ以降の事業停止日までの賃金不払いについては、「期待可能性が無かった」ということになります。

因みに、賃金不払いの「期待可能性有」の立証方法には、倒産日直前の1ヶ月だけを犯罪事実とするという方法もあります。倒産日1ヶ月前の法違反の特定というのは、「会社の継続が困難なことは、資金繰りから推定できた。次回の支払日に賃金が支払えないことは経営者は予見できたが、労働者を働かした」という理論構成によります。今回の事件の横浜南署の対応のとおり、倒産日から離れた期日の賃金不払いを事件とするのか、倒産1ヶ月前を狙って送検するのかはケースバイケースです。

 

賃金不払い事件(2)

(朝霞市の江戸時代の農家・旧高橋家住宅、by T.M)

賃金不払い事件の件について、続きです。 

賃金不払い事件について、「民事の債務不履行案件ではなく、刑事事件で犯罪行為です」ということようやく検事に理解してもらったとしても、検事は次なる難題を捜査官である労働基準監督官に命じます。

「期待可能性があったかを捜査しろ」と言うのです。刑事事件の期待可能性の有無とは、理系出身の監督官にはとても難しい概念なのですが、私の理解としては、「犯人が法違反を犯さないですむ方法はあったのか」ということを立証しろということだと思います。

賃金不払い事件で、期待可能性が無しとされる一番有名な例は、「1968年の3億円強奪事件」に関係するボーナス不払事件でしょう。この事件は、強奪された金額が大きかったこと、時効が成立したこと、犯人が白バイを偽装し犯罪に及んだことと等が有名ですが、実は強奪された3億円はその日に、東芝府中工場の従業員に手渡されるはずのボーナスだったのです。この事件のせいで、東芝の職員にはボーナスの支払いが1日遅れてしまいました。そこで労働基準法24条で規定された「賃金の所定期日払い」の違反が成立している訳ですが、これは「期待性可能性無し」として犯罪行為は成立しません。

賃金不払いにおける期待可能性とは通常なら「天災等が原因で賃金が支払われなかった」ことを指します。東日本大震災の時に、被災地の会社では多くの賃金不払いが発生しましたが、当然これらは、賃金不払いの犯罪行為としては成立しません。

ところが、検事が倒産事件等の賃金不払い事件で、期待可能性の有無として、捜査官に命じるのは、「支払い可能な金銭があったかを捜査しろ」というものなのです。倒産近くの事業場に賃金に充当できる資金があることは稀です。だから、賃金不払い事件は、この期待可能性の捜査により、「所定期日に賃金が支払われなかったこと」を証明するといった単純な事件でなく、倒産事業場の資金の流れを解明するといったとても難しい捜査となってしまうのです。                                                        

                                 (続く)

 

賃金不払い事件

(パリ・ダカに出場のポルシェ、by T.M)

こんな新聞記事がありました。 

9月12日ー時事通信 晴れ着の着付けやレンタルを手掛ける「はれのひ」(破産)が、従業員に定められた賃金を支払わなかったとして、横浜南労働基準監督署は12日、最低賃金法違反(不払い)容疑で、同社と元社長の篠崎洋一郎被告(56)=詐欺罪で起訴=を横浜地検に書類送検した。認否は公表していない。 送検容疑は、東京や神奈川、福岡など5都県にある事業所の従業員計27人に対し、昨年8月1日から31日までの賃金計約510万円を支払わなかった疑い。

 横浜南署の担当の方、お疲れ様でした。この件はマスコミ等の対応が相当たいへんだったと思います。通常なら、本件のように「法的破産が成立し」「国による未払賃金の立替払いの事務処理を破産管財人が行っている」ケースでは送検しません。倒産がらみの賃金不払い事件で監督署が送検するのは、「事業主が法的破産もせずに、立替払いの事務処理を労働基準監督署が行った」ケースです。まあ、破産手続きという事業主の「最後の責任」を果たせば、未払い賃金は国により、(原資を労災保険の資金から)立替払いがされるから、まあいいかという考えです。もっとも「立替払い」といっても、事業主から後日返済されることはありませんけど・・・

検事の中には「賃金不払い事件」の送致を嫌がる方もいます。そして、送致してもほとんどは起訴されることはありません。大抵は「起訴猶予」という処分になります。賃金不払い事件は初めてという若い検事の方に次のような質問をされたことがあります。

「労働基準法に規定はあるけど、『賃金不払い』がなぜ犯罪なんですか。」

私は、家族を養う労働者が生活の糧である賃金が払われずに、どのような悲惨なことになるかを説明しました。すると、その検事は次のように答えました。

「あらゆる『債務不履行』について、そんな悲劇の側面はあるじゃないですか。私が尋ねているのは、債務不履行は通常は民事事件なのに、なぜ賃金不払事件だけは刑事事件なんだということです。」

検事の指摘どおり、例えば日本では「手形の不渡り」は犯罪事件として取り扱われません。いくつもの会社が連鎖倒産したり、自殺者がでたとしても、最初に手形の不渡りを出した会社の社長は、そのことにより処罰されることはないのです。

今回の「ハレノヒ」の事件で、社長は成人の日に、多くの成人式を向えた方とその親御さんと迷惑をかけた行為について、刑事罰を問われることはありません。被害者の方は、「債権者の一人」という立場に過ぎないのです。

また、「てるみくらぶ」のように、倒産により旅行中のお客様に帰りの飛行機の手配ができなかったことについても、そのこと自体は犯罪行為ではありません。

債務不履行は詐欺事件にまで発展しなければ犯罪にはなりません。つまり、経営者が最初から「客をだます」つもりで、その行為を行わなければ犯罪行為とならないです。「何とかなると思い」あるいは「倒産を回避しようとギリギリまで努力」している限り、無能な経営者に損失を被った債権者の自己責任とされてしまうのです。

つまり、「ハレノヒ」も「てるみくらぶ」も、法的責任を問われているのは、新聞記事に取り上げられた「事件」ではなく、「賃金不払い」であり「銀行に対し、虚偽作成した帳簿を示し融資を受けた詐欺行為」についてなのです。

                           (続く)